企画記事
ゲームブック戦国時代。短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第2回は,原作者の来日に沸き,ライバルが乱立した80年代中盤を振り返る
21 ゲームブックを翻訳する際のテクニック
ひとえにゲームブックの翻訳といっても,単に“横のものを縦にする”だけでなしえるものではない。シリーズに関わった訳者らの手法を辿ってみよう。
浅羽莢子氏の場合,「普通の本と同じように通読して頭から訳していくだけ」であった。ただし訳了後に,ルールの解釈やパラグラフの飛び先に間違いがないのかを,入念に確認しなくてはならず,「むしろ原稿が仕上がってからが大変という妙な事態になっている」と氏は述懐している※1。
松坂 健氏の場合も,まずは原書を通読してエラーがないかを確認するところから始めるという。その後,コンピュータに強い妻に対価を払って,フローチャート(A3の紙で7〜8枚になる)を作成してもらう。出来上がったチャートを睨みながら,エピソードの塊としてつながっている部分を発見し,そこを翻訳し,妻にワープロへ打ち込んでもらう。最後に頭から通読して矛盾を潰す※2。こういった手順だったそうだ。
コンピュータを使ったフローチャート作成は,鎌田三平氏も行っていた※3。そのほか,複数の訳者が,フローチャート作成やテストプレイに配偶者や子どもの手を借りたと証言している。
ここのフローチャート作成は,のちに必須の作業として引き継がれたようで,久志本克己氏は翻訳を手掛けることになったとき,「翻訳者の仕事にフローチャート作成も含まれます」と事前に説明を受けたという※4。編集部側もフローチャートを参考に,校正刷りをカード化してフローチャートを「再現」する形で点検作業を行うい,バグ(飛び先ミス)をなくそうとしていた。
というのも,ゲームブックのバグは通常の本にも増して致命的だったのだ。
小浜徹也氏は,自身が東京創元社で最初に手掛けた作業が,ゲームブックのバグへの対応(読者からのクレームに対応したり,“お詫びと訂正”を記した紙を挟み込んだりする作業)だったと回想している※5。
松坂 健氏も,原文のleftとrightを取り違えて読者から指摘を受け,刷りを重ねたあとに修正したと述べている※6。その後,どちらの会社もチェック体制がいっそう強化されたとのことである。
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社会思想社側もバグが致命的と分かっているので,チェッカーにも謝礼を出し,校正は入念に行っていたようだ※8。
酒井昭伸氏は,パソコン用のデータベースソフトを早くから導入していた人物の一人だ※9。この経験がパソコン関係の翻訳を行う足がかりとなってユーザーグループ間での横のつながりができ,技術関係の翻訳に悩んだときの質問先にもなったという。
具体的には,次のような手順で訳を行っていたそうだ※10。
- まず一覧表のデータシートを作り(Excelのシートみたいなもの),「本文」「章番号」「分岐ごとの飛び先」「図版番号」「備考」などを項目として立てておく。一覧表の1行(1レコード)が1カードに相当。入力はカード形式の帳票画面で行う。
- 内容を追って,飛び先の順番に1レコードずつ訳す。
- すべて訳し終えたら各分岐系統ごとに並べ替え,それぞれのストーリー系統に破綻がないかを確認。
- 最後に章番号順に並べ替え,ワープロに吐きだして文章校正。
- (社会思想社の場合)プリントアウトして提出。それぞれの分岐系統を番号順に並べた一覧表も添えた。
「この方式での翻訳は,ハマるものには効果抜群で,のちに大友克洋のコミック『AKIRA』英語版を逆和訳したときにも応用しました」とは,酒井氏の弁。近藤氏の場合は,本文を「MS-DOSかワードプロセッサーのテキストファイルで納品」していたようだ※11。
バグチェックは翻訳のみならず,創作の面でも鍵だった。
作家の塩田信之氏は,菊地秀行氏原作の「エイリアン地底魔城」(朝日ソノラマ,1984年)でゲームブックと出逢い,「火吹山の魔法使い」で「ああ,こういうゲームが遊びたかったんだ」という自分の気持ちに気づいたという※12。
氏は1986年に「妖魔館の謎」(光文社)でデビューし,「ウィザードリィ」シリーズなど双葉社のファミコン冒険ゲームブックシリーズを中心に多数の著作を残しているが,当時はスタジオ・ハード内で,「プロット作成」→「チャート作成」→「チャートデバッグ」→「ナンバリング」→「本文執筆」→「テストプレイ」という制作プロセスの講習会を行うことで,ノウハウを共有していたと述べている※13。
※1:浅羽莢子「ゲームブック翻訳顛末記」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
※2:松坂健「翻訳始末記」,「ゲームブック・マガジン」創刊号(1986年6月),社会思想社。
※3:鎌田三平氏の証言に基づく。
※4:久志本克己氏の証言に基づく。
※5:小浜徹也氏の証言に基づく。
※6:「松坂さんよりメールを頂いてしまった話」,小玉晃氏のウェブサイト「冒険記録紙」,2025年12月閲覧。
※7〜8:近藤功司氏の証言に基づく。
※9〜10:酒井昭伸氏の証言に基づく:
※11:近藤功司「日本におけるゲームブック史」,「RPG学研究」4号,RPG学研究会,2023年。
※12〜13:「双葉社「ファミコン冒険ゲームブック」を中心に振り返る あの頃のゲームブックのこと」,「アドベンチャーゲームサイド」Vol.2,マイクロマガジン社,2014年。
22 「ウォーロック」の転機と国産FF作品の登場
1987年頭,「ウォーロック」誌を監修する安田 均氏に,晴天の霹靂ともいうべき事態が飛び込んできた。本国版「ウォーロック」が休刊になったというのだ。「ウォーロック」は中編のゲームブックが掲載されているのがウリだというのに,そのストックに先が見えてしまったのである。
ここで安田氏は“奇策”に売って出た。前年のオリジン・ゲーム・フェア(全米規模のゲーム見本市)でフライング・バッファローのリック・ルーミス社長に会っていたことを利用したのである。
安田氏はルーミスに,T&Tソロアドベンチャーは「ゲームブックのいわば原点」なのだと熱弁を振るい,控えめな彼から「我々の発想はすごかった」という言葉を引き出している※1。つまりジャクソン氏らの成功は,T&Tあってこそだと示唆したのだ。
1986年当時,T&Tはイギリスでリバイバルが進んでいて,テリー・プラチェットのユーモア・ファンタジー小説シリーズ「ディスクワールド」で著名なジョシュ・カービィのイラスト付きで,コーギ・ブックスからペーパーバック形式のソロアドベンチャーが出始めていた。
安田氏はその版権を取得し,日本版「ウォーロック」14号以降の柱にしようと考え,水面下で準備を進めていた※2。T&Tの日本語版ルールブックは1987年末に発売され,1人でも多人数でも遊べる廉価ながら本格的なRPGとして,「ドンピシャのタイミングでハマった」という※3。これがなければ,「ウォーロック」は続いていなかったろうと,安田氏は回想している※4。
ただ,サポート対象となるタイトルができたからといって,万事解決とはいかなかった。目玉となる中編ゲームブックの枠の問題である。
「ウォーロック」で始めて日本オリジナルのゲームブック「モンスターの逆襲」を出したのは山本 弘氏である。3号(1987年3月)から6号(同6月)の4回連載で,パラグラフ総数は「ファイティング・ファンタジー」の通例に倣った400であった。
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そのゴブリンが連載1回につき1人ずつ,冒険者への復讐を遂げていく“逆転の発想”が面白いタイトルだが,本作は明らかに,ジャクソンの最高傑作との誉れも高いシリーズ第23巻「モンスター誕生」を踏まえている。
ただし,同作が翻訳出版されるのは1988年3月30日と,1年も先のこと。同作はグループSNEとの共同名義なので,訳者となる安田 均氏から,「モンスター誕生」のことを教わったのかもしれない。
「モンスターの逆襲」がユニークだったのは,「君」が最初は弱小クリーチャーであるゴブリンにすぎないのに,魔力を込められた秘宝・黒いヒスイの力で,次々と別のモンスターへと変身していくところである。しかも変身するモンスターの種類は系統ごとに分岐していき,実に多彩なのだ。
普段は敵役たるモンスター側を演じるという,似たタイプの先行作に「モンスター!モンスター!」(1976年)があるが,これはT&Tのバリアントであり,どのモンスターを演じるかトランプを引いてランダムで決定するのが特徴だった。こうした発想を絶妙に照応しながら,決して“パクリ”になっていないところが「モンスターの逆襲」の凄さである。
「ウォーロック」12号(1987年12月)の思緒雄二「顔のない村」は,FFのルールをベースにしつつも,舞台をフランス文学者にして詩人でもある天沢退二郎氏の“暗黒児童文学”こと「光車よ、まわれ!」(1973年)のような和風の民俗学ホラーに置き換えたもの。
14号(1988年2月)に掲載された山本 弘氏の「四人のキング」は,FFのルールとトランプを用いたランダムなダンジョン生成を組み合わせた意欲作であった。アバロンヒルのファンタジー・ボードゲーム「ミスティック・ウッド」(1980年)を参考にしたものと推察される。
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これは「ウォーロック」18号(1988年6月)から20号(同8月)までに,200パラグラフずつ連載されたもので,これまでのゲームブックで断片的に描かれてきた3大陸を股にかけた,雄大なスケールのゲームブックであった。細部にまでこだわりが込められた本格的な内容で,類似のコンセプトの作品はイギリス本国にも存在しないのだから,画期的な一作だったといえる。
「ウォーロック」ではイラストレーターの活躍も目覚ましかった。毎号の表紙を彩った米田仁士氏,「ロッコちゃん」をはじめ可愛らしいマスコット的なイラストに長けたNikov氏,繊細でありながら不気味なモンスターも巧みに表現する鈴木健介氏,流麗な筆致でハイファンタジーの雰囲気を表現した森川珠衣氏らの仕事である。
うち,鈴木健介氏は梶山 浩名義でも活躍し,1990年代にはRPG「ログアウト」(アスキー)誌の表紙を飾るなどしたが,本格ダークファンタジーコミック「カースブラッド」(徳間書店)の第1巻を刊行した翌年の2018年に没している。
なお気になる「ウォーロック」の発行部数は,初期は約2万部ほどあったようだ。18号からはゲームブックだけでなく,RPGなどストーリーゲーム全般を取り上げることを宣言するなど,幾度かのリニューアルが重ねられたが,この時期は1万部ほどで推移しており,終刊時には8000部ほどまで落ち込んたという※5。
※1:安田 均「遊びの世界(2)オリジンと『T&T』」(「ゲームブック・マガジン」2号(1986年8月),社会思想社。
※2〜5:安田 均「日本現代卓上遊戯史紀聞[1] 安田 均」(聞き手:岡和田晃・沢田大樹・山本拓),ニューゲームズオーダー,2018年。
23 ジャクソン&リビングストンの日本ツアー
日本における「ファイティング・ファンタジー」の盛り上がりが最高潮に達したことを見事に可視化した出来事が,スティーブ・ジャクソン氏とイアン・リビングストン氏の招聘だった。両氏が日本に滞在したのは1987年4月24日から30日までの1週間で,その間2000回にも及ぶサインに応じたというのだから恐れ入る※1。
イアン・リビングストン氏は「ダイスメン」の中で,オーストラリア,ニュージランド,南アフリカ,カナダ,アメリカ,ヨーロッパ各地をめぐる宣伝ツアーを通して,日本が「最も盛大」だったと回想している。なお来日時のスケジュールは以下のとおり※2。
- 4月25日(土曜日)14:00〜15:00 サイン会:三省堂書店本店(東京・神田)
- 4月26日(日曜日)10:00〜17:00 ライブ・ウォーロック(東京):主婦会館(東京・四谷)
- 4月28日(火曜日)16:00〜17:00 サイン会:三省堂書店名古屋店
- 4月29日(水曜日)14:00〜15:00 サイン会:ジュンク堂書店三宮店(兵庫・神戸)
- 同日 15:00〜18:00 ライブ・ウォーロック in 神戸:センタープラザ西館(兵庫・神戸・三宮)※3
- 終了後,夕食会でのインタビュー(多摩 豊・安田 均・神月摩由璃の各氏による。トランプなどのゲームや奇術の研究で知られる松田道弘氏とも会食をした)
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25日のサイン会には300名以上が詰めかけ,予定の時間を1時間オーバーした。「ビートたけしのサイン会以来」の盛況との評判だったようだ。
26日のライブ・ウォーロックは定員100名を上回る120名が参加した。午前中はFF,T&T,「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下,D&D),「ローズ・トゥ・ロード」「トラベラー」といったおなじみのタイトルに,翻訳が出たばかりの「ジェームズ・ボンド007」(ホビージャパン,日本語版1986年)も加わって,多くのTPRGを体験できる場が設けられた。ゲームマスターには慶應HQの面々や,清松みゆき氏・水野 良氏らも駆り出されたという。
またボードゲームの「タリスマン」も用意され,デザイナー自らが見守るなかでプレイする,貴重な機会となったようである。
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最初が,近藤功司氏と門倉直人氏の対談「ゲームの殿堂ライブ」で,ゲームブックから「ローズ・トゥ・ロード」の話まで話題は尽きなかった。その脇では,小泉雅也氏によるゲームブック時評「マーくん水晶玉」にちなんだ講演がなされたが,これは読者の立場から「こんなゲームブックが読みたい」と語る内容だった。
連続で登壇した門倉直人氏と有坂 純氏による「RPG&ゲームブック・システム講座」では,有坂氏が翻訳したばかりの「クトゥルフの呼び声」(ホビージャパン,1986年)の話が出たらしい。
午後には参加者全員を対象とした,安田 均氏によるD&Dの講演が行われた。内容は午前中にプレイしたり,見学したりしたゲームの特徴を解説するものであった。
そして,いよいよ真打ちとなるジャクソン&リビングストン両氏の講演ののち,「ウォーロック」誌上で好評を集めていた「読者への挑戦」のライブ版が行われ,イベントは締めとなった。講演の詳細は記録に残っていないが,29日に行われたインタビューと,ある程度重複する内容だったようだ。
インタビューでは,リビングストン氏が日本の読者へのお薦めとして,シリーズ21巻の「迷宮探検競技」と26巻「甦る妖術使い」を紹介している。のちに多摩氏が後者を翻訳することになるのは,このときの印象が強かったからに違いない。
多摩氏から「今の日本のゲームファンに向けて何かコメントはありますか?」と問われたジャクソン氏は,
と応えている。日本のファンへの暖かな眼差しが感じられる,いいコメントではないだろうか。熱気にあてられ,読者である君のリアルな運点が1増える。きっといいことあるよ!
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- ゲームブックの翻訳を,どんな面々が担当していたかを知るのなら,25へ。
- 「ウォーロック」編集長の代替わりにまで時計の針を進めるのなら,27(第3回)へ。
※1:「ライブ・ウォーロック」,「ウォーロック」7号(1987年7月),社会思想社。
※2:「アドベンチャー・ゲームブックの原作者 S・ジャクソンとI・リビングストン サイン会」,「ウォーロック」5号(1987年5月)
※3:前掲「ライブ・ウォーロック」,その後の記述もすべてこちらが典拠である。
24 国産「ファイティング・ファンタジー」の雄・山本 弘氏
初期の国産「ファイティング・ファンタジー」を支えた第一人者は,間違いなく山本 弘氏であった。
石にかじりついても作家になりたかったという山本氏は,18歳で執筆した小説「シルフィラ症候群」で中間小説誌「問題小説」(徳間書店)の新人賞で最終候補となる。選考委員には筒井康隆氏がいたため,氏の主催するSFファングループ「ネオ・ヌル」に参加。3年後の1977年には短編「スタンピード!」で,SF小説誌「奇想天外」(奇想天外社)が募集した第1回の新人賞で佳作に選ばれる。そして同誌1978年3月号で商業デビューを果たし,ファンダム内外からの注目を集めた。なおSF作家の新井素子氏,谷 甲州氏,牧野 修氏もこの賞出身である。
しかしその後,完璧主義が祟ったのか,あるいは不必要なまでに設定を作り込む癖が災いしたのか,約10年間ものスランプに陥ってしまう。その間,氏は京都大学生協の学食での炊事補助のアルバイトなどで食いつないだそうだ※1。
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山本 弘氏が「ウォーロック」に初登場したのは,2号(1987年1月号)の漫画「私はこうしてバルサスした」でのことだった。ラフな味わいの筆致ながら,ゲームプレイを臨場感がたっぷりに伝えるリプレイコミックの先駆作だ。
ここでは「『火吹山』をたった3時間で解いた実績がある(宝箱は開けられんかったけど)」と始まり,当時の氏がゲームブックに夢中になっていたことがよく伝わってくる。実際,「星群の会」がらみの会合で,山本 弘氏と交流のあった小浜氏は,例会から二次会まで,ひたすら未訳のゲームブックについて語り続けたことがあったと回想している※2。
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また,「私はこうしてバルサスした」の姉妹編「私はこうしてソーサリーした」が,アニメ系の投稿雑誌「ファンロード」(ラポート)の1986年1月号に掲載されている。この号は「ロールプレイング特集」と銘打ち,「ファイティング・ファンタジー」や各種未訳RPGの紹介が行われた号で,ほかにも「盗賊都市」や「王たちの冠」のファンアートを描いた読者投稿などが掲載されていた。のちの「ウォーロック」のモデルとなった雑誌の一つと思われる。
山本 弘氏がスランプから脱したのは,国産ホラーRPG「ラプラスの魔」(角川文庫,1988年)の書き下ろしノベライズを担当してからだとされているが,同作は妖艶な宇宙の女吸血鬼を描いた「シャンブロウ」(1933年)で知られる,C・L・ムーアに学んだという,凝りに凝った情景描写が印象深い佳品であった※3。しかしそれ以前に,ゲームブックの執筆で構成力を磨いた,という側面はあったのではないか。
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その後,「ソード・ワールド短編集」(1989年〜)や「妖魔夜行」(1993年〜),あるいはオリジナル長編「時の果てのフェブラリー─赤方偏移世界─」(角川文庫スニーカー文庫,1989年)などでの小説家としての活躍には目覚ましいものがあるが,ゲームブックの売上がはっきりと落ち込みだした1991年においても,氏は「ソード・ワールドRPG」リプレイ第1部(1989〜1990年)での軽快なスタイルはそのままに,「アドバンスト・ファイティング・ファンタジー」のリプレイ「タイタンふたたび」(1991年)を担当するなど,多彩なスタイルでFFに関わってきた。
1990年代半ばからは,疑似科学を“いじる”「トンデモ本の世界」(1995年)が,続編の「トンデモ本の逆襲」(1996年)とあわせて30万部超のベストセラーとなり,1990年代後半にはSF作家として独り立ちするため,グループSNEを円満退社する。
その後の氏の代表的な業績としては,私小説と多元宇宙SFを融合させて第42回星雲賞長編部門に輝いた「去年はいい年になるだろう」(2011年)を挙げておきたい。この小説には安田 均氏らも登場する。
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2018年には脳梗塞で倒れ,療養しながらリハビリと執筆を続けていたが,2024年には誤嚥性肺炎で逝去している。
「モンスターの逆襲」は1988年に,「四人のキング」は1991年に,それぞれ現代教養文庫から文庫版が発売されている。一方,大作「暗黒の三つの顔」は没後,「私はこうしてバルサスした」などと共に「山本弘ウォーロック大全」(新紀元社,2024年)にまとめられ,初の単行本化を果たしている。
※1:山本 弘「創作講座 料理を作るように小説を書こう」,東京創元社,2021年。
※2:小浜徹也氏の証言に基づく。
※3:前掲「料理を作るように小説を書こう」。
25 酒井昭伸氏と,柴野拓美氏周辺のSF系人脈
「ゲームブック・マガジン」や「ウォーロック」が創刊された1986年は,ファミコンで「ドラゴンクエスト」が発売された年でもあったが,創刊の準備に手を取られたがためか,本家「ファイティング・ファンタジー」の刊行は隔月ペースに留まっていた。月刊ペースでの刊行ラッシュが続くのは,1987年になってからのことである。
しかしシリーズ初のホラー・ゲームブックである第10巻「地獄の館」(スティーブ・ジャクソン,1986年6月25日)では,ついに元締めたる安田 均氏が翻訳を担当,初版10万部という景気の良い部数を達成する※1。
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さらに映画「マッドマックス」(1979年)のゲームブック版ともいえる,ポストホロコースト世界を扱った第13巻「フリーウェイの戦士」(イアン・リビングストン,1986年12月25日)は佐脇洋平氏の訳である。
それでも訳者の数が足りない。しかも10巻以降のシリーズは,ますますSF色が強くなり,餅は餅屋ということで,SFに強い訳者を揃える必要性が生まれてきた。
そこでまず,SF畑から参加したのが,11巻「宇宙の暗殺者」(アンドリュー・チャップマン,1986年10月25日)および「電脳(コンピューター)破壊作戦」(ロビン・ウォーターフィールド,1987年5月1日)の訳者である酒井昭伸氏だ。
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「SFマガジン」よりも古いファンジン「宇宙塵」は,実質的にプロのSF作家たちの登竜門であり,かつ一部書店でも売られていたセミプロジンだった。柴野氏は,その主催者としてとくによく知られた人物である。
氏はSFを「テクノロジーの自走性」というキーワードから定義し直す「『集団理性』の提唱」をはじめとしたSF評論でも評価が高く,また小隅 黎名義で翻訳やジュヴナイルSFの創作,タツノコプロのSFアニメ考証なども行っている。
翻訳家としては,E・E・スミスの「レンズマン」シリーズや,ラリー・ニーヴンの「リングワールド」シリーズなど,新旧さまざまなSFの翻訳を手がけ,その面白さを伝えると共に,後進の育成にも積極的に携わってきた。
若手の翻訳家志望者に積極的に下訳を割り振ってデビューのきっかけを作り,また1983年にはバベル翻訳学院の講師として,出版を前提に1冊の本を分担して翻訳するワークショップを開き,そこから翻訳勉強会「RAY会」を発足させる。
同会の初期メンバーには,FFシリーズ後期作の翻訳を多数手掛けた坂井星之氏や,キム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」シリーズの訳者として知られる梶本靖子(鍛治靖子)氏が名を連ねている。
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また,酒井氏はウォーゲーマーでもあり,紙のコマの替わりに使うためと,1/288のミニチュア戦車や1/72フィギュア・セットをコレクションしていた。その流れで,ホビージャパンが輸入販売していたシミュレーション・ウォーゲームのマニュアルの翻訳も手がけている。
「叩き上げタイプの人にウケがよかった」酒井氏は,ホビージャパンの社長・佐藤光市氏(2016年没)に気に入られ,佐藤氏が監修をつとめるジェームズ・F・ダニガン「ウォーゲーム・ハンドブック」(日本語版1981年)を,別の翻訳家との共同ペンネームである鈴木正一名義で翻訳した※3。
つまりSFとゲームの両方が分かり,社会思想社で仕事もしていた訳者として,編集部長の田中矗人氏から打診を受けたわけだ。
柴野拓美氏が,取り立ててSFゲームに強い関心を持っていたわけではないだろうが,1982年よりボードゲームサークル「なかよし村とゲームの木」を主宰し,2000年にゲームマーケットを立ち上げる草場 純氏(氏は「SFマガジン」1976年2月号にいち早くゲーム論を寄せていた人物でもある)とは,「SFファン科学勉強会」という研究会を通じて交流があったし※4,新しいSFの動向には若い翻訳家が向いていると判断し,差配を行ったのだろう。
こうして久志本克己氏は,シリーズ第15巻「宇宙の連邦捜査官」(アンドリュー・チャップマン,1987年2月25日),酒井氏は第17巻「サイボーグを倒せ」(スティーブ・ジャクソン,1987年4月25日)の翻訳を手掛け,1987年には月刊ペースでFFシリーズが刊行されていくことになる。
久志本氏は,それまで「ウォーロック」誌上での翻訳こそしていたが,このとき始めて田中氏に会って文庫の方を担当してもらったという※6。
坂井氏はゲームに関心があったわけではなかったものの,妻の手を借りて丁寧にチャートを作成したのが功を奏したのか※7,第23巻の「仮面の破壊者」(1987年11月25日),第27巻の「スター ストライダー」(1988年9月30日),第31巻「最後の戦士」(1989年10月30日)を担当し,社会思想社のシリーズ後期作を支える人材となっていく。
酒井氏は主に早川書房で最新のSFを次々と訳し,グレッグ・ベア,デイヴィッド・ブリン,ダン・シモンズ,マイクル・クライトン,ジョージ・R・R・マーティン,ジェフ・ヴァンダミアなどの翻訳を手掛けて著名となる。久志本氏や坂井氏は,SFも絡んだ科学ノンフィクションを訳出し,活躍の場を広げていった。
※1:安田 均「安田均のゲーム紀行 1950-2020」,新紀元社,2020年。
※2〜3:酒井昭伸氏への取材に基づく。
※4:「柴野拓美さんを偲ぶ会」実行委員会編「塵もつもれば星となる 追憶の柴野拓美」,2010年。
※5:久志本克己氏への取材に基づく。
※6:坂井星之氏の証言に基づく。
26 マルチクリエイター・鎌田三平氏
東京創元社でゲームブックを翻訳し,また社会思想社では「ゲームブック・マガジン」へ寄稿していた鎌田三平氏も,この頃シリーズ16巻「海賊船バンシー号」(アンドリュー・チャップマン,1987年3月25日)や第19巻「深海の悪魔」(アメリカの方のスティーブ・ジャクソン,1987年6月25日)の訳を手がけている。
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中でもパシフィカの海洋冒険シリーズを手掛けていたこともあって,「ファイティング・ファンタジー」の海洋冒険ものを任されたのだそうだ※1。
その後,新藤氏の紹介で「ドラゴンランス」のマーガレット・ワイスとトレイシー・ヒックマンのコンビによる新シリーズ「ダーク・ソード」シリーズ(富士見ドラゴンノベルズ,日本語版1989〜1991年)の翻訳を行う。
一方,コンピュータ雑誌「ポプコム」(小学館)から,「『ロードス島戦記』のような企画ものをやりたい」と相談を受けたのもこの時期だ。
「ポプコム」は矢野 徹氏とつながりがあり,ムソルグスキーの組曲から着想した異色のゲームブック「展覧会の絵」(創元推理文庫,1987年)を出した森山安雄氏が,6回にわたり欄外ゲームブックを連載していた媒体である(1986年)。
「マイコンBASICマガジン」(電波新聞社)で手塚一郎氏が立ち上げた「ペーパーアドベンチャー」コーナー(1984年8月号〜)などの先例(「火吹山の魔法使い」より4か月も早い!)もあって,当時「ポプコム」のような雑誌にゲームブックが掲載されるのは普通だったのだ。
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本田成二氏を中心とした関西大学SF研出身のメンバー数人を含めてグループ・クラムボンを結成し,応募者の処理を担当。その結果からピックアップして鎌田氏が小説化する流れであり,こちらは1年以上続いてティールハイトよりパソコンゲーム化された(1992年)。また,新しいジュヴナイル・ファンタジーのレーベルである小学館スーパークエスト文庫の初期ラインナップとして,鎌田氏自身の手で再構成された小説シリーズも出ている(1992〜93年)。
鎌田氏はシステムサコムから発売されたPC-8801対応ノベルウェア「シャティ」(1988年)や,グループ・クラムボンと執筆した「アローン・イン・ザ・ダーク」のガイドブック(1994年)やノベライズ(小学館スーパークエスト文庫,1995年)も手掛けたが,これらも「ポプコム」がらみの仕事だったので,「個人的にはずいぶんお世話になったものです」と,氏は感慨深げに語っている※2。
「ポプコム」自体は1994年に休刊となったが,コンスタントに翻訳の仕事を続けていた鎌田氏は,冒険SFやハードボイルド・ミステリを中心に翻訳を続け,角川文庫のジョー・R・ランズデール作品や,二見文庫のボブ・メイヤー作品の訳者として名を馳せる。
なお「王たちの冠」の解説で,FFに夢中だったと語られる小学2年生だった氏の息子さんは,その後理系の大学に進み,卒業後はゲーム会社に就職したそうだ※3。
- 「ウォーロック」編集長の代替わりにまで時計の針を進めるのなら,27へ(第3回)。
- いや,その前に初代編集長の多摩 豊氏をよく知りたいなら,19へ。
※1〜3:鎌田三平氏の証言に基づく。
- 関連タイトル:
ファイティング・ファンタジー・コレクション
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