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「ドラクエII」タイアップ曲でデビューし,新星の輝きに圧倒され表舞台を去った牧野アンナさんが目指すもの ビデオゲームの語り部たち:第34部
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印刷2023/02/01 12:00

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「ドラクエII」タイアップ曲でデビューし,新星の輝きに圧倒され表舞台を去った牧野アンナさんが目指すもの ビデオゲームの語り部たち:第34部

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 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,振付師の牧野アンナさんに話をうかがった。牧野さんは,父のマキノ正幸氏が立ち上げた沖縄アクターズスクールでレッスンを重ね,ファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」のタイアップ楽曲「Love Song 探して」でデビュー。その後,安室奈美恵さんも在籍したアイドルグループのSUPER MONKEY'Sのメンバーを経て指導する側に回り,現在は自身が立ち上げたエンターテイメントスクール「ラブジャンクス」を運営している。

 そんな牧野さんと筆者(黒川)には,30年以上も前に接点があった。牧野さんが歌った「Love Song 探して」はアポロン音楽工業(当時)からリリースされているが,そのとき筆者は,入社3年のほどのアポロン社員だったのだ。ご本人にとっては「大勢の中の1人」だったろうが,オフィスを訪れた牧野さんに挨拶をしたことも覚えている。

 当時のアポロンは,大手が力を入れていなかったカーオーディオ用の8トラックテープやカセットテープの販売が主な事業であり,筆者もその仕事を担当した。当初イメージしていたレコード会社の仕事とは全然違ったものの,無知で行き当たりばったりの学生をエンターテイメントの世界に引き入れてくれたアポロンには感謝している。
 そして,そのアポロンでデビューし,以後も波瀾万丈の人生を送ってきた牧野さんには勝手ながら親近感のようなものを覚えていて,今回の再会にはいろいろなものが一巡したような感慨深さがあった。

 普段の回よりもゲームに関する話題は少なめだが,エンターテイメント業界という厳しい世界で懸命に生きてきた牧野さんに興味や共感を覚える人は多いはず。ぜひ,じっくり読んでいただきたい。

牧野アンナさん
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沖縄アクターズスクール独自のスタイルが生まれた理由


3歳の牧野さん。沖縄の自宅の庭で
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 沖縄生まれのイメージがある牧野さんだが,実は1971年12月に東京で生まれた。翌1972年に,日本に返還された沖縄に両親,兄とともに移住している。

 「私が住んでいたのは沖縄の北中城(きたなかぐすく)です。近所の子達は皆外国人で,私自身もインターナショナルスクールに通っていました。まだ道路は右側通行だったし(左側通行になったのは1978年7月30日),お店でドルが使えるしで,ほぼアメリカって感じでしたね。『沖縄エキスポランド』や『沖縄こどもの国』みたいな施設はありましたけど,普段は海かプールで泳ぐくらいで,娯楽らしい娯楽はあまりなかった」

 前述したように,牧野さんの父親は沖縄アクターズスクールを立ち上げたマキノ正幸氏だ。加えて曾祖父は“日本映画の父”と呼ばれた牧野省三氏,祖父は映画監督のマキノ雅弘氏,祖母は宝塚歌劇団卒業生で映画女優の轟 夕起子さん,親戚には俳優の長門裕之さんと津川雅彦さん兄弟がいた。牧野さんは,まごうことなき芸能一家の生まれなのだが,幼少の頃にそうした意識はなかったという。

 「生まれてすぐ東京を離れたこともあって,芸能一家だと感じることはありませんでした。父は祖父の撮影所に行ったり,自宅に高倉 健さんや富司純子さんが遊びに来たりといった環境で育っているんですけれど」

牧野さんが小学生のころ,家族4人そろって
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 父である正幸氏が沖縄に移住することを決めたのは,牧野さんいわく「綺麗な女性がたくさんいたから」とのこと。

 「日本人離れしたルックスの人が多くて楽しいと。それでしょっちゅう沖縄に遊びに行くようになって,もう引っ越しちゃおうとなったんです。最初はクラブを経営していたんですが,そこのホステスさんも,父から見て魅力的な女性を集めて」

 とはいえ,正幸氏にも「いつまでこんなことを続けていけるのか」という悩みがあったそうだ。

 「そんな折に,父と仲のよかった平尾昌晃先生が『タレントスクールは儲かるよ』とお話をくださって。実際,平尾先生のスクールは繁盛してましたし,それで父も面白いと思って始めたんです」

※1958年に歌手としてデビューし,「ロカビリー三人男」の1人として活躍。その後作曲家としても「カナダからの手紙」などのヒット曲を手がけた

 これだけ聞くと軽い決断なのだが,正幸氏にはタレントスクールの運営にうってつけの才能があった。

 「父の家には,映画監督の祖父に芝居の稽古をつけてもらうため,多くの新人俳優が来ていました。そして父は,その中から売れてスターになっていく人を見て育ったので,才能を見抜く目が養われたというんです」

 そうして1983年4月,正幸氏は沖縄アクターズスクールを開校する。出身タレントには“歌とダンス”のイメージが強い同校だが,当初は名前の通り,俳優養成所だった。

 「長門さんや津川さんのお名前を借りて人を集めやすかったのと,俳優事務所とのつながりがあったので,いい子がいたらすぐにデビューさせられると考えたんでしょうね」

 当初,正幸氏は自身で教えるのではなく,講師を雇っていたそうだ。しかし1年ほど経って,その講師が独立して別のスクールを開校し,高校生以上を対象とするメインのクラスの生徒も連れていってしまった。

 残ったのは牧野さんを含むジュニアクラス(小中学生)の何人かだけで,当然ながら経営の先行きが怪しくなった。
 
 「今思えば,賃貸のビルなのに防音スタジオを作るとか,無茶なお金の使い方もしていたんですよね。授業料が年150万円くらいだったのに,初回の生徒募集では希望者が殺到したので,『これは行ける』と考えたらしいんですが,2回め以降は全然集まらなくて。
 結局,父は借金を返済するために,全国を回って商品を売るような仕事を始めたんです」

 正幸氏が不在がちとなり,沖縄アクターズスクールでは正幸氏がかつてクラブで雇っていたサックスプレイヤーの男性がジュニアクラスの講師を務めることになった。人に教えた経験がないというので,「好きなことをやっていいよ」と放任したそうだが,生徒にはこれが“好評”だった。

11歳のとき,アクターズスクールの月例会で松田聖子さんの曲を歌う牧野さん
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 「それまではピアノに合わせて演歌を歌ったり,レオタードを着てジャズバレエをやったりといったレッスンだったので,みんな嫌気が差していたんでしょう。でも好きなことをやっていいと言われたから,『カラオケやりたい』と。皆で『私は聖子ちゃんの曲』『私は明菜ちゃん』『キョンキョンがいい』とポップスを歌うようになりました。誰かが歌っている間,ほかの人は後ろで一緒に歌ったり踊ったり」

 そして,この“カラオケ遊び”のような時間が,沖縄アクターズスクール独自のスタイルを生み,数多くの才能を世に送り出すきっかけとなった。

 「アクターズスクールの大きな特徴に,『生徒が生徒を教える』システムがありますが,それはこのときにスタートしたんです。講師でなく,みんなで何をやるか決めるんですね。ダンスをやるなら,自分たちが格好いいと思っていたマイケル・ジャクソンやマドンナのビデオを見て,皆で振り付けを完コピしてダンスナンバーを作るとか。そういったことを,小中学生なりに自分達だけでやっていたんです」

 それからしばらくして,借金を返済し終えた正幸氏も沖縄に帰ってきて,本格的なアクターズスクールの建て直しに取りかかることになった。
 なお,借金返済のために始めた仕事で正幸氏は売上トップになり,会社から表彰されたという。であればその方面でさらに頑張る手もあったはずだが,正幸氏はなんとしても沖縄アクターズスクールを成功させたいと思っていたようだ。

 「父は基本的に負けず嫌いで,沖縄に帰ってきたときも『俺を裏切ったヤツのスクールを潰すまでやる』と。絶対スターを出してやるんだと,歌いながら踊る手法の研究を始めたんです。
 ビデオを観ながら『マイケル・ジャクソンのような海外アーティストは,あんなに激しく踊りながら歌っているのに声がブレない。何が違うんだろう』って。あるとき,『こんなに動いてるのに,頭の位置が変わらない』とか『足の使い方がこう,上半身の使い方がこう』とか,説明されてやってみろと言われたんですが,全然できなかった。
 それでも父は『お前は不器用だし才能もないから,お前ができるようになれば,たぶん誰でもできる。できないところから始めて,できるようになるまでの過程を全部通るから,ほかの子にも教えられるようになるだろう』と」

 つまり正幸氏が研究した技術理論を牧野さんに伝授し,その牧野さんが生徒達に実習で教えるという手順を踏んだのだ。これが,正幸氏の不在時に形成された生徒達自身の発想で進めるレッスンと融合し,沖縄アクターズスクールはほかのタレントスクールとは異なる独自の進化を遂げていく。

 「今のほとんどのスクールは,たとえばダンスなら全部先生の考えた振り付けをコピーをするスタイルなんですよ。それを習慣にしていくと,与えられたことだけやればいいという体質になってしまいます。
 父は,才能を伸ばすために必要なことは,発想力や行動力,つまりやりたいと思う気持ちだと考えていました。アクターズスクールで最初にやるレッスンが『曲を流すので,自由に踊ってください』なんです。でも何もやったことのない人に自由に踊れといっても,どうしていいか分からなくて,立ちすくんでしまいます」

 だが,牧野さんはそれでいいと話す。

 「そのとき,踊りたくないのに踊るのは間違いなんです。心が動いたから踊りたくなる,もっとこうなりたいから踊る……といった感性を育ててから技術を教えないと,本人のものにならない。最初は左右に動くだけで精一杯だった子が,もっとやりたいという気持ちになって自分で研究して,しっかり自分の足で踏み出していくまでの道を作ってあげるというか。それができるまで,技術は与えないんです」

 そういった生徒の自主性を促すアプローチは,レッスンだけに留まらなかった。

 「3か月に1回くらいの定期公演も,お前達だけで全部やれと。もう『沖縄市民会館って何人入るんだっけ』みたいに会場探しから始めて,どうすれば借りられるかも分からないまま電話をかけて。
 音響とか照明の手配,曲の編集も自分たちの仕事です。すべてを業者さんお願いすると予算をオーバーしてしまうので,業者さんに教えてもらいながら,オープンリールのテープをハサミで切ったりつないだりして」

 子ども達に歌やダンスを教えるタレントスクールで,こういった裏方仕事や予算管理まで生徒が行うところは今も昔もほとんど例がないと思うが,牧野さんらは何も疑問に思わなかったとのこと。

 「ほかにもスクールがあれば『生徒がやることじゃない』と分かるんでしょうけど,比較対象がないので,こういうものだと思っていました。父が選抜した子だけが出演できるショーもあって,父が決めた組み合わせの中で,それぞれ振り付けを作って,なんてこともやっていました」

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リリースから30年以上経っても愛される「Love Song 探して」


 そうやってアクターズスクールでレッスンを重ねた生徒の中から,ついにデビューする子が現れた。1986年にCBS・ソニーレコードのオーディションに合格したGWINKOさんだ。これが牧野さんの気持ちに火を付ける。

牧野さん(右)が13歳の頃,GWINKOさん(左)と一緒に出演した歌番組で。この頃は2人で組んでのステージが多かったそうだが,牧野さんは「GWINKOには何一つ勝てませんでした」と振り返った
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 「GWINKOは同じアクターズスクール1期生で,絶対に負けたくないライバルだったので,上京することを聞いて父に『私も行きたい』と。デビューなんてまったく決まってなかったんですけど,私が絶対に行くと言って聞かなかったので,父は津川さんに相談したんです。
 それで津川さんに歌を聴いてもらったら,『いいよ,ウチで預かるよ』と言ってくださって。それで14歳で上京して,津川さんのご自宅に居候しながらオーディションを受けることになったんです。津川さんは,所属が決まらなかったらご自身の事務所であるグランパパプロダクションで面倒を見るとも言ってくださいました」

 人気俳優で親戚でもある津川さんの事務所に入れるなら最高じゃないかと思う人もいるだろうが,牧野さんは音楽事務所希望で,サンミュージックと渡辺プロダクションのオーディションを受けたという。

 「渡辺プロのオーディションは,自社でやっているスクールの生徒の前で歌を披露して,その生徒達の反応が審査の一部になっていたのを覚えています。その結果,渡辺プロへの所属が決まって」

「Love Song 探して」のジャケット
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 そして牧野さんは1987年1月21日,アポロンから発売されたシングル「Love Song 探して」で念願のデビューを果たした。前述のように,これは「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」とのタイアップ楽曲だったので,ご存じの読者も多いだろう。

 アポロンは,1986年からゲームミュージックのカセットテープやレコードを手がけ,「コンピュージック」というレーベルも立ち上げていた。初代「ドラゴンクエスト」のサウンドトラックも同社からリリースされている。

 当時アポロンに所属していた筆者も,ドラゴンクエストの音楽作品がアポロンからリリースされた理由は把握していないので,以下はあくまで推測となるが,おそらくはアポロンにコンピュージックレーベル作品での経験があったことや,アポロンに出資していた渡辺プロダクションとドラゴンクエストの作曲家すぎやまこういち氏の関係性(すぎやま氏がフジテレビ社員時代に手がけた番組「ザ・ヒットパレード」の制作に渡辺プロダクションが参加していた)に起因するものと思われる。

 「ドラゴンクエストII」は前作のヒットを受け,プレイヤーや関係者から大きな期待がかけられていたタイトルだった。当時のファミコン用ゲームタイトルとしては異例と言っていいアイドルとのタイアップ施策には,あまりゲームに親しんでいない層にも本作をアピールしようという狙いがあったのかもしれない。
 ゲーム内のどこかの街に,牧野さんをモデルにした歌姫・アンナが登場することが大々的に告知され,サウンドトラックアルバム購入者向けのキャンペーン企画として,アンナが映った画面を撮影した写真の募集も行われた。

「ドラゴンクエストII」のサウンドトラック。未開封のカセットには,牧野さんを起用したキャンペーンのシールが貼られている
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 ゲームにあまり興味がなく,ドラゴンクエストがどんなものなのかよく分かっていなかった牧野さんも,プロモーションを行う中で,その凄さに気づいたという。

 「最初に聞かされたのは,『ドラゴンクエスト』という人気ゲームとタイアップしてアイドルをデビューさせる企画があるからオーディションを受けないか,という話だったと思います。自分から希望したとか,事務所の意向だったわけではなく,そのときたまたまドラゴンクエストのオーディションがあって,受けたら合格したと。
 当時はドラゴンクエストのすごさを分かっていませんでしたし,ゲームの中にアイドルやタレントのキャラクターが出てくることのパイオニア的存在,と言われても実感がなかったんです。ただ,ほぼすべての取材がドラゴンクエスト関連だったので,すごいことなんだなとは思っていました」

 作曲を手がけたすぎやまこういち氏とは,歌を聴いてもらうだけでなく,一緒にテレビ出演をする機会もあった。

 「いつもにこやかに見守ってくれる,優しいおじいちゃんのような方でした。レコーディングに編曲を担当された大村雅朗さんがいらっしゃっていたのも覚えています。すぎやまさんの作った原曲はアイドルソングっぽくなくて,大村さんが『これはどうしたらいいんだ』と悩んでいたんですが,出来上がった曲をみんなで聴いて,『よくここまで変わったね』という話をしていた記憶もあります」

 豪華なスタッフに人気ゲームタイトルとのタイアップと,デビュー曲としてはこれ以上ないと思われるような条件が整ったのだが,牧野さんには気がかりなことがあった。ファミコンの性能面での限界があり,ゲーム内で自身の声が流れず,歌姫アンナの姿も自身に似ているわけではなかったことだ。

 「歌声のない電子音だし,歌姫のアンナは茶髪だし……全然違うじゃん,これって意味あるのかなと思っていたんです。今,私がSNSで『Love Song 探して』について投稿しても,『歌詞あったんだ』みたいな反応をする方が結構いらっしゃいますね」

 当時,アニメとのタイアップでヒットした曲はいくつもあったが,それらは当然ながら劇中でレコード(CD)の音源がそのまま流れていた。ゲームとのタイアップでは,そこが大きなハンデになったわけだ。とくにゲームのメディアである4Gamerの読者なら「『Love Song 探して』という曲名を知っていて,鼻歌でも歌えるが,牧野さんの歌声は聞いたことがない」という人は多いだろう。

 今,歴史を振り返れば,実はゲーム機がメディアにCD-ROMを採用し,BGMにCD音源を使う時代は間近に迫っていた(PCエンジン用CD-ROMドライブであるCD-ROM2が発売されたのは1988年12月4日)。「ドラゴンクエストII」は240万本以上を売り上げたとされるだけに,もしタイミングが少しずれていたらと思わずにはいられない。

デビューしたころの牧野さん
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 ともあれ,シングル「Love Song 探して」はオリコン33位を記録した。デビュー曲としては上々の結果と言えるかもしれないが,牧野さん自身は納得のいかないところがあったという。

「よかったなと思う半面,もっと行くと思ったんだけどという気持ちもあって。当時の沖縄で,テレビの音楽番組と言えば,『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』だったので,そこに出ることが“デビューの証”だと思っていたようなところもありました。シングルを出せば上位10位に入ると思っていたから,何で入ってないんだろうと」

 だが,「Love Song 探して」が,記録より記憶に残る歌であることは読者もご存じの通りだ。リリースから時間が経てば経つほど,牧野さんもそれを強く実感するようになる。

 「あれから40年近く経って,今でも牧野アンナの名前を覚えていてくださったり,『最初に買ったレコードがこれなんです』『あのときのノベルティグッズ,まだ持っています』なんて言ってくださる人がいるんですよね」

 プレイヤーの印象に残った理由の1つに,曲が流れる“場所”も関係していることは間違いないだろう。

 「『ふっかつのじゅもん』を入力するときのBGMでもあるんですよね。『やたら長い呪文を手書きでメモったら1文字間違っていて,それまでの努力が水の泡になったときに流れていた思い出があります』みたいなことを,今でもみなさんから聞きます」

 そうした「ドラゴンクエストII」と牧野さんの熱心なファンの1人が,ヒップホップグループ,KICK THE CAN CREWのメンバーで,ゲーマーとしてもよく知られるMCUさんだ。

 「私が『ドラゴンクエストII』を遊んだことがないといったら,MCUさんと一緒にプレイする配信をやることになって。ある程度のところまでMCUさんが進めてくださって,そこから先を教えてもらいながら私がプレイしたんです。しばらくすると,アンナが出てきて『Love Song 探して』が流れるんですよ。それに合わせて私が生で歌ったら,配信を観てくださっている皆さんが『ウワーッ』って。もう,すごい数のコメントが寄せられるんですよ。すごく盛り上がって,MCUさんも『Love Song 探して』のコラボバージョンを出せないかみたいなことを言ってくださいました」


「優しさの裏にあるもの」に気づけなかったための挫折


 牧野さんはデビューから3か月後の1987年4月21日に,セカンドシングル「瞳は元気なブルースカイ」をリリースしたが,売り上げは「Love Song 探して」から落ち込んだ。
 牧野さんの焦りは仕事にも表れるようになり,周囲の大人達に文句ばかり言うようになってしまっていたという。 

 「本当に生意気だったんです。態度が悪すぎて,私に付いた新人マネージャーさんが3か月で会社を辞めたくらい」

 牧野さんは申し訳なさそうに当時の様子を振り返った。

 「その頃のアポロンに所属していたアイドルは私だけだったからか,みんながお姫様みたいに扱ってくれて,叱られるようなことはまずなかったです。おそらく,十代の女の子をどう扱っていいか分からなかったんでしょうね。
 売れてもいないのに『私のおかげで食べてけるんでしょ』みたいな態度になって。みんな,私が気分よく仕事できるように優しくしてくれていたと思うんですけど,その優しさの内側が,子どもの私には分からなかった」

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 当時アポロンの社員だった筆者から見ても,“十代の女の子をどう扱っていいか分からなかった”というのはその通りだと感じる。牧野さんに挨拶したことを覚えているのも,アポロンでは珍しいアイドルだったからということもあるだろう。

 アポロンにはアイドルを含む“アーティストもの”のノウハウや,テレビやラジオ,雑誌といったメディアとのコネクションがなく,そこは他社に大きく遅れをとっていたと感じていた。
 実際,アポロンでは牧野さんが入る前にも期待のアイドルがいて,当時ヒットチャートをにぎわせていた安全地帯の玉置浩二さんや,BOØWYの氷室京介さんに楽曲を提供してもらったにもかかわらず,数枚のレコードを残してアポロンを去ることになった。

 そんな会社が,大手でしかも株主でもある渡辺プロダクションの新人アイドルを預かり,厳しく鍛えて成功に導くことは難しかったのではないか。つまり,売る側と売られる側の両方にとって,不運な出会いだった。

 そして,デビューから1年が過ぎると,牧野さんを取り巻く状況は一変した。

 「まず私の知らないところで,『牧野をどうするか』というような社内会議があったんだと思います。それに加えて,新人アイドルの子が入ってきました。
 ある日,会社に行ったらその子を紹介されたんですが,それまで私の周りにいた大人たちが,みんなその子の側に立っていたのを覚えています。それ以降,私の仕事に付いてきてくれる人は1人いるかいないかになって。チヤホヤしてくれていた人に挨拶しても,『あっ……』っていう顔になるとか」

 何が起こったのか,わけが分からなかった牧野さんに状況を説明したのは正幸氏だった。

 「お前は売れていないし,売れるための努力もしないで,ただただ態度が悪かったのだから,そうなって当然だと。大人達は,お前が好きだから優しくしていたわけじゃない。もう売らないことに決めたから,もうお前をチヤホヤする必要がなくなったんだろうと説明してくれたんです」

 だが,渡辺プロダクションとのマネージメント契約はまだ残っていた。1〜2年ほどだったというが,16歳の子にとって,この時間は大きい。
 正幸氏は「飼い殺しにされて時間を無駄にするくらいなら,やり直すチャンスもあるから引き取らせてほしい」と渡辺プロダクションのチーフマネージャーに直談判し,契約は前倒しで終了となった。同じようにアポロンとも話が付いたという。

 「それで父から『お前,クビになったんだから沖縄に帰ってこい』と言われたんです」

 だが,牧野さんは沖縄に帰るふんぎりがつかなかった。アクターズスクールの中では先輩,教える立場であり,デビューが決まったときはバンザイで送り出してもらったのに,失敗して戻るのは恥ずかしいという思いがあったという。
 そこで約半年の間,原宿にあったマイケル・ジャクソンのタレントショップ(オーナーは松本伊代さんだったという)でアルバイトをしながら,ダンスレッスンを受ける日々を送った。

 「そのお店に,私と同期のアイドルだった畠田理恵ちゃんが来たんです。それに気づいた私は思わず店の裏に隠れたんですね。そのとき,『私,何やってるんだろう……』と思って。このままだと本当にダメになりそうな気がして,1回沖縄に行ってアクターズスクールに顔を出したくなったんです」

 このとき牧野さんは,あくまで「顔を出すだけ」のつもりだったというが,思わぬ歓迎を受けたことで,「失敗して戻るのは恥ずかしい」という気持ちは消え,沖縄で再起を図ることを決めた。

 「ちょっと遊びに来たという体で覗いたら,みんながすごく成長していたんですよ。私が教えていた子が活き活きして,歌やダンスが目茶苦茶うまくなっていて。
 自分だけが置いていかれたような寂しい気持ちになって,思わず『帰ってきたいな』と漏らしたら,『嬉しい! 帰ってきてくれるの!』とも言ってもらえたので,沖縄に戻ることを決めました」


「こんな“化け物”と勝負していたら苦しいだけだ」


 牧野さんは再デビューのために沖縄へと帰ってきた。正幸氏もそのつもりだと思っていたが,そうではなかったという。

 「お前は才能がないから,裏方の人間になれ,指導者になれと。今でこそ振り付け師や指導者といった本来裏方の人の名前が表に出ることもありますが,当時はそんなことがなかったので,もう死刑宣告を受けた気持ちになりました。
 でも父は,『アクターズスクールからスターがどんどん出るようになって,お前はスターを育てた人間として脚光を浴びられるから』と言ったんです」

 今振り返れば正幸氏の言葉通りになったわけだが,当時は牧野さん自身を含め,アクターズスクールの生徒たちは,デビューできてもその後が思うように行かないケースがほとんどで,言葉を鵜呑みにはできなかったという。

 「父の言葉を聞いたときに『あ,そういうスターのなりかたもあるんだ』とは思いましたが,すべてを素直には受け取れず,私にアイドルや歌手を諦めさせるためだろうと決めつけていました。でも父は,『まずこの子たちを育てなさい』と,奈美恵(安室奈美恵さん)たちを私に任せてくれたんです」

 正幸氏にとって,安室さんはまさに秘蔵っ子だった。まだ小学5年生だった安室さんと初めて顔を合わせたとき,後年開花する才能をすでに見抜いていたという。

 「奈美恵が最初にアクターズスクールに来たときは友達の付き添いで,本人がオーディションを受けに来たわけじゃなかったんです。細くて,色が黒くて,人見知りであまり顔を出したがらない,いつもハンカチで顔を隠しているような子で。
 でも,その姿を見た父が呼び止めて,『授業料はいらないから入りなさい』って。歌も聴いていなければダンスも見ていないのに,歩いている姿を見ただけで『この歩き方をする子は絶対歌える』『日本人は頭打ちの歩き方をするけれど,彼女はアフタービートで歩いている』と言っていました」

 常人には理解しづらい表現だが,前述したように幼い頃からスターになる者を見てきた正幸氏ならではの慧眼から来るものなのだろう。

 そうやって安室さんはアクターズスクールに通い出したが,最初の1〜2か月は立ったまま何もしなかったそうだ。発声練習でも顔を隠して立っているだけで,牧野さんらがどんなに励ましても,声を出さなかったという。

 「それでも父は『絶対,花開くタイミングがある』と。そんなとき,地元のカラオケ大会がテレビ番組として放送される機会があって,アクターズスクールから歌える子を3人推薦することになったんですが,父はそこに奈美恵を入れました。
 それまで父も私も奈美恵の歌を聴いたことがなかったんですが,ステージに立ったらビックリするくらいワーッと歌い出して。思わず父の顔を見たら『ほら見ろ』と。しかもそのとき,奈美恵は優勝したんですよ」

 安室さんの開花を目の当たりにした正幸氏は,「奈美恵みたいな逸材は今後出てこないから,失敗するわけにはいかない」と念を押して,そのうえで牧野さんに安室さんの育成を託したのだった。正幸氏は,安室さんだけでなく,牧野さんの才能も信じていたわけだ。

 だが前述したように,沖縄アクターズスクール出身者は,デビューしてもその後が続かないケースが多かった。その原因は,東京に行けたということで満足してしまったり,誘惑に負けて遊びを覚えてしまったりといったことにあったという。そのため,当時の芸能界では「沖縄の子は才能があっても,メンタルが弱くてダメ」というイメージが付き始めていたそうだ。
 そこで牧野さんと正幸氏は育成方法を全面的に変え,とくにメンタル面を鍛えることにした。

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 「何のためにデビューするのか,デビューは通過点であり,その先で何がしたいのかを考えさせる。レッスンもそこそこに,そういう話を父が何時間もするんです。
 今だったら問題になりますけれど,学校も行かなくていいと。でもそれは勉強しなくていいということではなく,学校でやる以上の勉強をしなさいということなんです。新聞や本を読ませて,世の中のことを教えたり」

 そうやって鍛えられたメンバーで結成されたのがSUPER MONKEY'Sで,牧野さんもその1人になった。

 「私はSUPER MONKEY'Sのリーダーという位置付けでしたが,父はデビューと同時に私をメンバーから外そうと考えていたんです。当時の私はアクターズスクールのレッスンをすべて見ていたので,代わりがいないだろうと。でも私からすると,それまでにないくらいの努力を重ねてきたので『何が何でも行きたいです』って」

 その必死な訴えを正幸氏が聞き入れ,牧野さんはほかのメンバーとともに上京し,共同生活を送ることになった。その日々は相当にストイックだったようだ。

 「父は私に『これだけの才能を預けるのだから,もしダメだったらお前のせいだ』,ほかのメンバーに向かっても『沖縄の子どもたちの未来を背負っている自覚を持て』と言っていましたから。
 仕事がない日も朝7時に起床してトレーニングしたり,図書館に行ったりして,スケジュールに合わせた生活を送っていたんです。取材を受けたら,帰ってからその反省会もやっていました」

 そういった努力が実を結び,SUPER MONKEY'Sは1992年9月,シングル「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」でデビューした。
 渡辺プロダクションとの契約終了から約4年半,牧野さんにとっては待望の再デビューだったが,それからわずか2か月後の1992年11月に,SUPER MONKEY'Sを脱退してしまう。

 必死になって掴んだチャンスを,なぜ自分から手放してしまったのだろうか。

 「デビューして初めて奈美恵のすごさが分かって,打ちのめされたんです。
 レッスンで身に付けるのは,突き詰めれば技術的なことだけなので,アクターズスクールで奈美恵を教えていた私に劣等感はなかったんです。
 でもデビューすると,“人を惹きつけるもの”の勝負になります。奈美恵と一緒にステージに立った瞬間,『私,この子に絶対かなわない』って分かるんです。実際,お客さんは奈美恵しか見ないし,プロデューサーが『この子いいね』と褒めるのも決まって奈美恵で」

 当時の牧野さんは20歳。一度失敗した後悔から並々ならぬ努力を続けてきたが,歌とダンスに対する思いの強さでも,13歳の安室さんとは大きな差を感じたという。

 「奈美恵は歌とダンスが何より好きなんです。SUPER MONKEY'Sにいたとき,スーパーにある小さなステージで,お客さんが少ない午前中にレジのおばちゃんを前に歌って踊るような仕事がありました。私はそれが苦痛でしかたなかったんですけれど,奈美恵は『歌える!』ってすごく喜んでいて。
 もう,スタートラインがまったく違うんです。奈美恵は歌わずにいられないし,踊らずにいられない。私がつらいのをこらえて必死にやっている練習も,奈美恵は楽しんでるんですよね。
 奈美恵と比べてしまうと,私は『売れたい』という思いがまずあって,そのために歌やダンスをやっていたんだろうと」

 安室さんとの差を常に意識させられる共同生活は,牧野さんにとって非常につらいものとなった。

 「喉を痛めて歌うのを止められると,奈美恵はみんなの目を盗んで歌おうとするので,私がつきっきりで監視しなくちゃいけないこともありました。そんな日々の中で『こんな“化け物”と勝負していたら苦しいだけだ』と思って,もう辞めようと。私が生きる世界はここじゃないって」

 必死になってスターを目指していた牧野さんをあきらめさせたのは,スターが放つ輝きだった。

 再び沖縄アクターズスクールで子ども達を教え始めた牧野さんは,安室さんと似た輝きを感じさせる男の子と出会うことになる。それが三浦大知さんだった。

 「大知は6歳か7歳のときにアクターズスクールに入ってきたんですが,もう歌を教える必要がなかったんです。ほかの子は童謡みたいな歌い方なのに,彼は最初から久保田利伸ばりのフェイクを入れて歌っていました。大知も歌いたくて踊りたくて仕方ない子で,収録でほかの子達が楽屋で遊んでいるときも大知だけがスタジオにいて,ほかの人の歌に合わせて踊っているんです」

 あるとき牧野さんが,「踊りながらでも息が上がらずに歌える秘訣を教えてほしい」と三浦さんに迫ったところ,予想外の答えが返ってきたという。

 「『声を出すときに吐く息を,声帯のこの辺に当てる』みたいなことを言い出したんです。それをやると,苦しくても頑張れると。
 でも,そもそも声を出すときに息を吐くなんて,普通は意識しないじゃないですか。意識しないから,当て方なんて考えたことすらない。まったく参考になりませんでした。
 もう異次元の人なんですよね。誰かに教えてもらうのではなく,自分で掴み取っている」

画像集 No.012のサムネイル画像 / 「ドラクエII」タイアップ曲でデビューし,新星の輝きに圧倒され表舞台を去った牧野アンナさんが目指すもの ビデオゲームの語り部たち:第34部


「世の中にいい影響を与える仕事」を見つけ,自身の足で歩き出す


 安室奈美恵さん以降,MAXやSPEED,Folder(三浦大知さんや満島ひかりさんが所属)といったグループを次々にデビューさせ,芸能界を席巻した沖縄アクターズスクールだったが,ある時期から存在感を急速に失っていった。
 その要因の1つに,正幸氏の行きすぎた振る舞いによって,芸能界との関係が悪化したことがあるという。

 「この歳になると,父のそばにどういう人間がいればよかったのか分かるんですよ。父は頭を下げられないし,誰よりも目立っていたかったから,すぐ人と衝突するんです。
 実際,ある芸能関係者から『(正幸氏に代わって)あなたがアクターズスクールの代表になれば契約を結びましょう』という話を聞かされたこともあります。でも父は『絶対ダメだ』と」

 当時,牧野さんは,正幸氏の“信者”のようになっていたそうだ。

 「奈美恵がスターになって,それからもSPEEDをはじめとするグループが続いたことで,あの子達を育てた指導者として私自身がすごくフィーチャーされたんです。ドキュメンタリーにもなったし,アクターズスクールを題材にした少女漫画にも私が登場しました。全国の子が,私のレッスンを受けたいという状態になったんです。
 それはまさに,かつて父が言った通りのことだったので,父はすべて正しいと。でも,父には私のような信者ではなく,対極にいて他人との間を取り持つ人間が必要だったんですよね。結局,私が父の言いなりになっていたことが,アクターズスクールをダメにしてしまった一番の原因だったんです」

 チーフインストラクターとして沖縄アクターズスクールの子どもたちを教えていた牧野さん自身も,ある時期から行き詰まりを感じるようになった。

 「芸能界で,とくに若い女の子達を相手にしていると,いつも相手の腹を探るような状態になってしまうんです
 表では『頑張ります!』と言っている子も,私がいない場所だとそうではなかったり,真面目だと思っていた子が,実は裏でとんでもないことをしていたりということがあって,常に疑ってかかるようになってしまって。自分にはこの仕事が向いていないんじゃないかと,半分鬱のような感じにもなりました」

 そんなタイミングで,牧野さんの人生を変えることになるオファーが届いた。

 「日本ダウン症協会から,ダウン症の子ども達が参加するダンスイベントの演出と,ダンスレッスンの依頼がありました。それまで障害を抱えた人たちとの関わりが一切なかったので,自分でいろいろ調べたり,人から話を聞いたりしたんですが,そうやって集めた情報からは“本人も家族も大変そうだ”というイメージしか湧かなかったんです。
 でも実際にレッスンに入ってみたら,みなさん目茶苦茶明るいんですよ。最初のレッスンで,『1回踊るから見ててね』と曲を流して私が踊り出したら,全員立ち上がって一緒に踊り始めて。誰も私なんか見てなくて,好き勝手に踊っているんです。気持ちを爆発させるかのように,自由に踊るんですよ。そのとき『私,こんなに自由に楽しんだことないかも』と,衝撃を受けたんです」

 前述したように,沖縄アクターズスクールの新入生には,最初に『曲を流すので,自由に踊ってください』と呼びかけるわけだが,そこで立ちすくんでしまう子は少なくないし,それがある意味自然でもある。だがそこにいた子どもたちは自由な意志で踊り出したわけだ。

 そんな新鮮な体験になったレッスンが終わりに近づいた頃,保護者や関係者から「この子達を受け入れてくれるダンススクールがない」と聞かされた牧野さんは,ダウン症の子どもを対象とするエンターテイメントスクールを作ることを決意し,2002年10月に「ラブジャンクス」を立ち上げた。LOVE JUNCTION(愛の交差する場所)をアレンジした名前だそうだ。
 時期を同じくして,牧野さんは沖縄アクターズスクールから離れることを決め,正幸氏とも距離を置くことにした。

 「アクターズスクールの先生を務められる人はほかにもいましたし,この子達を教える人がいないなら,私がやろうと。
 触れあう前はネガティブな情報しか持っていなかったけれど,実はこんなにハッピーな人達だと知ることができた。だったら,私が生きてきたエンターテイメントの世界を活用して,『ダウン症の子達はこんなにハッピーなんだよ』と伝えていけば,閉ざされている扉のようなものが開くんじゃないかと。私がこの子達とダンスをやりたいと思ったように,この子達のために絵画教室をやりたい,就職の面倒を見たいといったように,可能性が広がっていくんじゃないかと考えたんです」

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 ラブジャンクスが「世の中にいい影響を与えるものである」と確信したことも,決断を後押ししたという。
 逆に言えば,沖縄アクターズスクールでの活動には,そう言い切れない部分があった。

 「当時のアクターズスクールは,どこよりもスターを世に送り出しましたが,その裏で多くの子が夢破れて去っていったわけです。デビューすらできないであろう子が大半なのに,授業料をいただいてレッスンをしている立場上,その子達に『無理だ』とは言えない。悩む子も当然いますが,曖昧なことしか言えないんです」

 熾烈な競争をくぐり抜けてデビューし,スターになったところで,幸せが約束されているわけでもない。

 「あんなに歌とダンスが好きで,トップスターになった奈美恵でさえ,辛そうな顔でテレビに映るときがありましたし,実際に『私はずっと戦っていかなければならないから,ほかのことを考える余裕がない』と話すのを聞いたこともあります。誰もがみんな,奈美恵のいるところが頂点で,そこにたどり着けば一番幸せだと思っているのに,奈美恵はそこに居続けるために誰よりも苦しんでいる。それに気づいたら,私のやっていることは誰を幸せにすることなんだろうって考えてしまったんですよね。それで『もう教えられない』となっていたときに,ダウン症の子達と出会って『この仕事でちゃんと人を幸せにできる』と思えた」

 アイドルとしても指導者としても,ひたすらスターを目指してきた牧野さんが,違う方向へ進むために立ち上げたラブジャンクスは,2022年に20周年を迎えた。長年にわたる活動実績が評価され,同年12月には文部科学大臣賞を受賞している。

ラブジャンクスとして出演したステージでの一枚
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父と20年振りの再会,そして沖縄アクターズスクール復活


 牧野さんは現在,2023年内の沖縄アクターズスクール復活を目指している。そのきっかけの1つは,20年もの間絶縁状態になっていた正幸氏との再会だった。牧野さんは正幸氏が体調を崩していることを人づてに聞き,支えなければと思ったという。

 「父と再会したことで,アクターズスクールが成し遂げたことの大きさを改めて感じたので,それを沖縄の人に思い出してもらうためのイベントを開催したいと思ったんです。(沖縄アクターズスクール出身者が数多く所属する)ライジングプロの平社長(平 哲夫氏)に相談したところ,全面的に協力する,みんなボランティア出演にすると言ってくださって。それと同時に,イベントをやるなら私がアクターズスクールを引き継げとも」

正幸氏との再会の後,家族で撮った一枚
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 しかし牧野さんにスクールを引き継ぐつもりはなかった。すでに沖縄にはたくさんのタレントスクールがあり,スクールに通ってデビューしたいと思う子どもがたくさんいる時代でもないというのが主な理由だ。確かに,YouTubeやTikTokに世界規模で歌やダンスの動画がアップされ,発信もできる今,スクールの意味は薄れているかもしれない。

 「それでその話は保留にして,イベントの話を進めていったんです。『今どきアクターズスクールを観に来てくれる人はいるのかな』なんて思っていたんですけれど,いざチケットが発売されたら10分くらいで完売したんですよ」

 2022年10月に開催された「沖縄アクターズスクール大復活祭」には,MAXやDA PUMP,島袋寛子さん,知念里奈さん,三浦大知さんら錚々たるメンバーが出演。牧野さんもSUPER MONKEY'Sの1人として,約30年ぶりにステージに立った。

「沖縄アクターズスクール大復活祭」に登場したSUPER MONKEY'S。左からMAXのMINAさん,牧野さん,新垣寿子さん,MAXのNANAさん
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 「みんなと一緒にステージに立ってお客さんを見るのは20歳の時以来だったんですよ。私はもうこちら側の人間ではないという思いもありましたが,SUPER MONKEY'Sとしてやった曲はすごく楽しかったし,嬉しかったんです。それはたぶん,歌って踊ることが楽しかったというよりも,みんなと同じ景色を見られたからなんですね」

 このイベントは牧野さん以外の出演者にも,特別なものに感じられたようだ。

 「復活祭が終わった後,大知が真っ先に私のところに来て『これ,残さなきゃダメです。こんな育成ができるところは,アクターズスクールしかない』と言うんです。(DA PUMPの)ISSAも,MAXのメンバーも,知念里奈も,みんな『残して』と言ってくれて,すごく嬉しかったし,この子達が一緒にやってくれるならできるとも感じました。それで復活祭の翌日,父に『跡を継ぎます』と。兄も一緒にやると言ってくれたので,兄に社長を任せました」

復活祭が終わり,牧野さんがステージをはけようとしたところ,三浦大知さんやISSAさんが予定になかった牧野さんへの感謝と拍手を会場に呼びかけ,アンナコールが湧き上がった。牧野さんはそれを聞きながら「なんて幸せなんだろう」と感極まったそうだ
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 もちろん引き継ぐにあたっては,かつて感じた問題を解決するための新たな方針を打ち出している。

 「生徒を広く募集して授業料で運営するのではなく,本当に才能がある子だけ育成するシステムを,スポンサーによって運営していく形にしました。
 育てた子をアクターズスクールからにポンッと外部に渡すことも止めます。そこにコーチ的な人,メンタルをケアする人がいる場合は別ですが,大概の場合はそこまでの体制が整っていないことのほうが多いからです。
 私自身,そこにずっとモヤモヤしていたので,自分でやるんだったら,そこは全部クリアにしようと思いました」

 もちろん,ラブジャンクスも並行して続けていく。

 「ラブジャンクスとアクターズスクールを提携校にして,スターが出たなら,たとえばその子のコンサートの前座にラブジャンクスの生徒達が出演する,何か一緒に作品を作るといったことができると思います」

 当初は,ライバルとなるタレントスクールがたくさんあることで躊躇していた牧野さんだが,今では逆に勝算があるとも考えてはじめているという。

 「今の日本には,女の子が格好よく歌って踊るグループって,あまりないんですよね。本格的にやりたい子は,韓国に行ってしまう。現役のアイドルグループのメンバーであっても,歌や踊りを真剣にやりたい子は,何も決まっていないのにオーディションを受けに韓国に行くんです。それは,歌って踊れるように育てることを日本がやらなくなったからです。
 アクターズスクールの復活を公表したら,テレビ局からオーディション番組をやりたいという話や,育成の部分で協力してほしいという話が来るようになりました。今まで韓国に行っていた子が,こちらに来てくれるのではないかと思っています」

 プロモーション面でも,時代に合わせた方法を模索している。

 「もう,プロダクション王道の売り方では売れなくなっているんですよ。新人にドラマの主題歌を歌わせて……みたいなことをやると,『事務所に推されている』みたいに反感を買うことになったりもする。今,多くの人は,サブスクなどを駆使して自分で才能を見つけ出したいんです。
 レコード会社もCDが売れなくなっているので,新しい形を作っていかなければならないんですが,まだ確立できていません。今は過渡期だと思います」

 そして最終的に目指すのは,世界を舞台に活躍できる才能の育成だ。とても大きな目標だが,牧野さんの言葉からは自信が感じられた。

 「BTSなどによって,アジアの人達が世界で勝負できることも証明されました。今,韓国で活躍しているプロデューサーの中には,かつて奈美恵やSPEED,MAXが出たときに『こういうグループを韓国でもやりたい』と,アクターズスクールに研究に来ていた人もいるんです。それでアクターズスクールがお休みしている間に,全部持っていかれてしまったと……。
 今は韓国でグループを作るとなると,世界での展開を見据えて中国やタイといったアジア各国の子を入れるんですよね。だからアクターズスクールも,アジア全体から才能のある子をスカウトしてきて,10歳くらいから英語や中国語を教えて,世界で勝負できる子を目標に育成を進めていきます。
 また日本で新たなムーブメントを作りたいですし,日本の才能が世界で勝負できることを証明したいですね」

取材日は牧野さんのお誕生日だったため,筆者から「Love Song 探して」のジャケット写真をデザインしたケーキを贈った
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著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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