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[インタビュー]発売から29年。鬼才・飯野賢治が作った「エネミー・ゼロ」の壮絶な制作現場や裏話を上田文人ら元WARPメンバーが語る
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印刷2025/10/15 23:55

インタビュー

[インタビュー]発売から29年。鬼才・飯野賢治が作った「エネミー・ゼロ」の壮絶な制作現場や裏話を上田文人ら元WARPメンバーが語る

 1996年に発売された「エネミー・ゼロ」は,“敵が見えない”“音だけを頼りに敵を倒す”という斬新なシステムや,後に「エネミー・ゼロ事件」と呼ばれるプラットフォーム変更などでゲーム史に強烈なインパクトを残した。
 同作を作った鬼才・飯野賢治氏率いる当時のWARP(ワープ。現・フロムイエロートゥオレンジ)には,「ICO」「ワンダと巨像」を手掛けた上田文人氏も在籍。今回,「飯野賢治生誕55周年企画」の一環として「エネミー・ゼロ」のレコードが発売されることを記念し,上田氏を含む元WARPメンバーが集い,制作の裏側や思い出を語った。

商品名:KENJI ENO 55: ENEMY ZERO Original Soundtrack
発売日時:2025年10月15日 23:00(予約販売開始)
仕様:アナログレコードLP 2枚組
価格:£49.99(約1万200円+送料+税)
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※WARP入社順
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宮崎朋浩氏(CGデザイナー)
WARP結成から解散まで在籍,すべてのゲーム制作に関わる。バンタンで講師をしていた飯野氏の生徒という異色の入社経緯を持つ
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須藤秀希氏(アニメーションスーパーバイザー)
「Dの食卓」「エネミー・ゼロ」など,ほぼ全てのゲームでアニメーションを担当。退社後は映画「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」など多数CGアニメ作品を手掛ける
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佐藤直哉氏(プログラマー)
WARP黎明期から解散まで在籍,WARPすべてのゲーム制作に関わる。現場ではあらゆる役割をこなしたWARPの支柱の一人
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上田文人氏(ゲームデザイナー)
「ICO」「ワンダと巨像」「人喰いの大鷲トリコ」などで知られるゲームデザイナー。WARPには「Dの食卓」制作後期〜「エネミー・ゼロ」制作期まで在籍
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 42歳の若さで世を去った飯野賢治氏の生誕55周年を記念したアルバム「KENJI ENO 55」が,5月5日にデジタル配信される。このアルバムには,飯野氏の晩年に活動していたバンド「NORWAY(ノルウェイ)」の楽曲も収録されている。そこで今回,NORWAYのメンバーに飯野氏の思い出を語ってもらった。

[2025/05/05 05:00]

「KENJI ENO 55: ENEMY ZERO Original Soundtrack」公式サイト



鬼才・飯野賢治と破天荒すぎるWARPの面々

前代未聞の「エネミー・ゼロ」事件の経緯とは


――この4人での座談会は新鮮ですね。作品についてうかがう前に,現在もゲーム業界で活躍されている上田さんの入社経緯について教えてください。

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上田文人氏(以下,上田氏):
 当時,大阪のCG会社でアルバイトをしていたのですが,生活のためゲーム会社に入ろうと思ったんです。どうせ入社するならWARPか(セガの)AM2研と考えていたんですよ,身の程知らずに(笑)。
 それで,誰にも見せずこっそり作りためていたCG作品をWARPに送ったらすごく評価してもらえて驚きました。ですので,僕はWARPに拾ってもらったような感じだと思っています。

――送られたのはどのような作品だったんですか。ほかの方は上田さんの作品をご覧になったのでしょうか?

須藤秀希氏(以下,須藤氏):
 僕が覚えているのは,車が停めてあるところの水たまりに雨が降っている映像です。あとはレンガが積んであるところにひよこがぶつかって飛び散るとか(笑)。何度も観たのでよく覚えてます。

佐藤直哉氏(以下,佐藤氏):
 確か,会社のみんなで観たんだよね。

宮崎朋浩氏(以下,宮崎氏):
 サンタクロースとか小人みたいなキャラもいた気がします。動きがすごく良くて。

須藤氏:
 いろんなバリエーションがあったから,きっとこの人はいろんなことをやっていて,その一部を切り抜いて送ってきただけなんだと脅威を感じましたね。みんなからも「上田さんっていうすげえやつが入社するぞ」って脅されて(笑)。いや実際にすごい人だったんだけどね。

佐藤氏:
 あのときの須藤君を見てるのが面白かった(笑)。

――WARPは今回の「エネミー・ゼロ」のほかにも,いろいろな作品を同時進行で制作していたんですよね。

佐藤氏:
 はい,細かいのはほかにも作っていました。「ショートワープ」)とか……。

※「ショートワープ」は「エネミー・ゼロ」と同じ年,1996年1月に発売されたミニゲーム集

上田氏:
 確か,手書きのシリアルナンバーがついていたような。それに,自分達で勝手に作ったレーティングのマークも(笑)。

――そんなことまで凝っていたんですね。では,プラットフォーム変更を発表した,いわゆる「エネミー・ゼロ事件」について教えてください。当初はPlayStationで発売される予定だったのに,1996年3月に行われた「PlayStation EXPO '96」で「セガサターンに変更する」と発表したんですよね。

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佐藤氏:
 僕は少しだけ先に聞いていたのですが,そのあとで飯野さんがみんなを集めて「(PlayStationから)サターンに行こうと思うけど,どうかな」って聞いたことがあったんです。みんなもそこに至る事情を聞いて,それならいいんじゃない? と賛成しました。

上田氏:
 発表の前の社内は,みんな浮ついていたというか学園祭の前夜みたいな感じでしたね。

須藤氏:
 僕もです。面白いとは思ったけど,あんなに大騒ぎになるとは思わなかった。

佐藤氏:
 ただまあちょっとヤバそうな話ではあったので,イベント当日は入場制限があったし,完全に密閉された状態で映像を流したんです。

須藤氏:
 初日はプレス専用の日で,録音録画をしないでくださいみたいな放送が流れてたんじゃなかったかな……。

――その映像では,PlayStationのロゴがセガサターンのロゴにモーフィングするという……。

須藤氏:
 宮崎さんも関わってたけど,あの場で流れた映像を作ったのは僕です(笑)。あれ,あとでものすごく怒られたんですよ。本来,企業のロゴって絶対にいじっちゃいけないものですからね。言われて作っただけなのに……。

上田氏:
 社員みんな20代前半くらいで若かったし,そんな知識はなかったんですよね。

須藤氏:
 そうなんです。あの頃,マイケル・ジャクソンの「ブラック・オア・ホワイト」のMVで使われていたモーフィングが流行していて,やってみたいなって思っていたんですよ。
 そうしたら飯野さんから「セガサターンの『S』とPSの『S』をうまく使って」って言われて,「やるやる!」って(笑)。すごく軽いノリで作っちゃいました。


上田氏:
 まあでも,当時は匿名掲示板もSNSも無かったですしね。

佐藤氏:
 そうそう。だからまあ,主に雑誌や新聞でニュースになったっていう。

須藤氏:
 大変なことをやっちゃったかもとは思ったけど,直接僕らの耳に届いていたわけではないんですよ。今の時代ったらそれこそヤバかったと思うけど。

上田氏:
 でも正直,「WARPってそういう会社だよね」っていう空気もあった(笑)。

――古くからWARPを知っている人はご存知でしょうが,今なら確実に大炎上しそうなエピソードも多かったですよね。

上田氏:
 「Dの食卓」でマルチメディア大賞を獲ったときもね……(笑)。

須藤氏:
 その年は“ハイパー・メディアクリエイター”の高城 剛さんが個人で受賞されてたんですが,飯野さんが授賞式で「高城 剛と呼ばれないよう頑張ります」みたいに本人の前でコメントして()。もうこれってパンクの精神ですよね,本当にお騒がせだったなぁ……(笑)。
 そういえばドリームキャストが発表される前も,セガから預かったモックアップのコントローラをファミレスに置き忘れていった社員がいたんですよ。

※ 高城氏と飯野はプライベートでの付き合いもある仲だったという

佐藤氏:
 帰りのタクシーで気付いて慌てて戻って,どうにか大丈夫だったっていう。

宮崎氏:
 ダメな会社だなぁ(笑)。

――思い出話を聞いていると,上田さんがWARPに在籍されていたのがにわかには信じられないくらいなのですが……。

上田氏:
 みんなと一緒にゲーセンに行って「バーチャファイター」で遊んだり,ほぼ会社に泊まり込みみたいな感じではありましたよ。

佐藤氏:
 でも罰ゲームには,俺や上田さんや宮ちゃん(宮崎氏)は誘われないんだよ。

須藤氏:
 最近のYouTuberって体を張ったネタをやってるけど,僕達は罰ゲームと称してほとんどのことをやってきたんですよ。でもやっぱり飯野さんの中でも“罰ゲーム担当”みたいな線引きはあったんでしょうね(笑)。

宮崎氏:
 言えないような話がいっぱいあるんだよね。今みたいにネットが普及してなかったから,誰に見せるわけでもなかったのに……。

――ではぜひ,今話しても大丈夫そうなネタをお願いします。

須藤氏:
 僕はギターを弾きながら牛丼を食べるっていうのをやらされました。

宮崎氏:
 某牛丼店で,飯野さんやみんなが先に入って待っているところに,須藤くんがギターを弾きながら入ってくるんですよ。

須藤氏:
 牛丼を〜ひとつ〜ください〜って(笑)。あと,駅前で勝手にCDを売って危ない人に絡まれたりとか,頭に花火をつけて……とか,この先はもう書けないと思いますが。

上田氏:
 楽しそうだよね,見る分には(笑)。それが普通とは言わないけど,90年代ってそういうのが許容されてた時代ではあったよね。


たった数人が不眠不休で制作した

4枚組の超大作「エネミー・ゼロ」


――では今日のメインである「エネミー・ゼロ」について教えてください。最初は,飯野さんから企画内容を聞いて制作をスタートさせた感じだったんですか?

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須藤氏:
 いえ,むしろ僕らも広告を見て初めて知ることが多かったです(笑)。
 ただ,韮沢 靖さん(「仮面ライダー」シリーズなどで知られるイラストレーター / 造形師)と飯野さんがやりとりをしていたので,先にデザインは起こしていましたね。だいぶ話がふくらんだところで,「こういうゲームを作るよ」と聞いた感じです。

上田氏:
 確か,アニメの「AKIRA」に出てくるビジュアルと少し似た感じで,エネミーが格納されている扉のCGを最初に作ったんだよね。あと,「2001年宇宙の旅」みたいなシンプル系のSFっぽいコンセプトフェーズもあった気がする。

須藤氏:
 その扉を作ったのは覚えてます。当時としても,未来の話のわりに船内がクラシックな感じでしたよね。ブラウン管とかトグルスイッチとか。韮沢さんのデザインでは,現代のテクノロジーを少しだけ未来にしたくらいの感じで描かれていたと思います。

――韮沢さんはクリーチャーデザインでクレジットされていますが,エネミー以外にも担当していたんですね。

宮崎氏:
 宇宙船もそうですね。そのあたりはけっこう早い段階で作っていたと思います。

須藤氏:
 デザインではあそこまで巨大な船じゃなかったです。心臓がイメージで,4つのタワーが動脈と静脈を表していました。

宮崎氏:
 その4つは季節をイメージしていて,サマータワーとかウィンタータワーとか名前がついていて。

須藤氏:
 当時は韮沢さんが会社にいらっしゃる頻度も多くて,飯野さんとミーティングを重ねていくうちに出来上がっていった世界観を,後から共有してもらっていました。

上田氏:
 最初はまだアニメーションではなくて,レンダリングテスト的な感じで作っていた気がします。ヒロインのローラは「Dの食卓」のときのデータがあるから,それを持ってきてモニターの前に立たせて……とか。

――「エネミー・ゼロ」制作時,スタッフは何人くらいだったんですか。

須藤氏:
 アニメーターが3人にデザイナーが3人,プログラマーが2人くらいでしたかね。あとは企画の飯野さんと脚本で坂元裕二さんっていう。今思うと本当に少ないですよね。

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上田氏:
 今でもインディー系は少人数で作るものもあるし,昔のゲーム開発って今より相当小規模だったけど……。それでも,あれだけCGを駆使した見た目のゲームということになると,当時の感覚としても相当少ない人数で作ってたよね。
 当時のWARPのプランナーって飯野さんだけじゃなかったかな?

須藤氏:
 「300万本売れるRPG」(飯野氏が企画だけ明かしていた幻のゲーム)を制作することになって,初めてプランナーを雇ったぐらいですよ。

――「エネミー・ゼロ」は少人数だったのに加え,制作期間も短かったんですよね。先ほどのお話の,PlayStationからセガサターンへの移行の発表が1996年3月で,ゲームの発売が1996年12月ですから……。

上田氏:
 当時,PlayStation版も1ステージめまでは完成していたんですよ。

佐藤氏:
 そうそう。それをやり直すことになったところから数えたら7〜8か月くらい? 当時,マスターアップは発売の1か月くらい前にするのが通例だったけど,間に合わなくてデータを分納したんです。

須藤氏:
 僕はWARPに入って,一番最初に「寝袋を買おう」って言われました(笑)。もう泊まり込むのが当たり前の環境で。

佐藤氏:
 恵比寿のmont-bellで買ったとき,店員さんに「どちらに登られるんですか?」って聞かれて「登らないんだよな……」って思いました(笑)。

須藤氏:
 連日泊まり込んでいて,最長は1か月くらいだったと思います。だんだん「須藤が臭い」って言われるようになったんですよ。

上田氏:
 須藤君,トイレに行く時間のスケジュールも作られてたよね(笑)。でも,そういう感じだったからその期間で作れたんだろうね。

須藤氏:
 机の下に入って2時間くらい仮眠するんです。それが飯野さん的に面白かったらしくて,まあ起こしてくるんです。しかも僕の耳元に巨大なスピーカーを置いて,エレキギターを「ジャーン!」って鳴らして……飛び上がって起きて,前歯を2本折りました(笑)。日常的にそういうことが起きて笑ってましたね。

上田氏:
 僕も寝袋を持っていましたが,当初は下半身だけ入って椅子で寝るタイプでしたね。それでは疲れが取れないから机の下で寝ろって言われて,そうするようになりました(笑)。

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佐藤氏:
 僕も仕事中,2回くらい気絶したことがありました。気付いたら床に倒れてるっていう……。飯野さんも家に帰ってなかったし。

――すさまじいですね……。大変だったことばかりかもしれませんが,ほかに苦労したことがあれば教えてください。

須藤氏:
 僕だけの話ですが,マスターアップの直前に「スペシャルムービーを追加したい」って言われて作ったことです。裏技で,ローラがシャワーを浴びるシーンを入れることになったんですよ。

上田氏:
 あれはパーティクルをけっこう使うしね。当時のレンダリングスペックを考えると大変そうだった。

――ゲーム制作をしている最中は,まだシナリオが完成してなかったというのは本当なんですか?

須藤氏:
 してなかったです。ワールドごとにシナリオを渡されていたんですが,もらって初めて「こういう展開になるのか」って知る感じだったので,途中まではエンディングを知らなかった感じでした。
 シナリオが無いと会話シーンでリップシンクできなくて,適当にパクパクしたのをループで作って,それを何度も流すっていう手法で作ってましたね。
 だから全然セリフと映像が合っていないところが山のようにあるんですよ。でもまあ,当時はそれでいいやみたいな感じで。

佐藤氏:
 そういえば宮ちゃんは覚えてるかな? 最初,ワールドAから始まってBCDと作って,でもまたワールドAから作り直したんだよ。テクスチャーとかも直して入れ直すみたいな。

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宮崎氏:
 そうだったかも……?

――皆さんから苦労エピソードが続々と明かされていますが,宮崎さんからはあまり出てこないですよね。

須藤氏:
 宮ちゃんは意外と何でも淡々とやってるイメージだったよね。言われたらすぐ「やります」って。

宮崎氏:
 とにかく飯野さんがやることが面白すぎて(笑)。楽しんでやってたし,逆に「もっと何かやれたのかな」って思ってましたね。

須藤氏:
 よく訓練されてる!(笑)


映画的な演出の一方,鬼畜すぎるゲームシステムだった

「エネミー・ゼロ」


――「エネミー・ゼロ」は,音楽をマイケル・ナイマンさんが担当したことも話題になりました。飯野さんがナイマンさんに会いに行って数時間説得したということですが。

上田氏:
 当時は映画「ピアノ・レッスン」の音楽で脚光を浴びてましたよね。

佐藤氏:
 でも,飯野さんから理由を聞いていなかったので「どうしてなんだろう?」とは思ってました。説得に行くっていうのを「へえー」くらいの感じで(笑)。

宮崎氏:
 だけど本当に,実際に会いに行こうとする行動力がすごいよね。

――実際に,音楽を聴いてみていかがでしたか。

佐藤氏:
 当時のゲーム音楽には,あんな雰囲気のものは無かったから,すごく驚きました。

須藤氏:
 音楽が入ったのは(ゲームが完成する)最後の最後でしたね。

「エネミー・ゼロ」オリジナルサウンドトラック



――いま聴いても素晴らしい音楽ですが,「Dの食卓」や「エネミー・ゼロ」は,非常に映画的だという印象がありました。

上田氏:
 「Dの食卓」が映画的になったのって須藤君がいたからだったの?

須藤氏:
 そうですね,カメラワークとかは全部僕が決めていたので……。

上田氏:
 できる人がいたから,この方向でやろうっていうのはあったんでしょうね。

須藤氏:
 レイアウトやカメラワークをすごく褒めていただいたのもあって,僕はWARPを辞めたあとにアニメ業界に入りました。

――「エネミー・ゼロ」は,発売前にオープニングからエンディングまでをフルで映像を見せるイベントもありましたよね。これもかなり前代未聞だと思います。

佐藤氏:
 あれはたぶん,飯野さんがプレイした映像だったんじゃないかなあ。そういうのは人に任せず,自分でやるタイプだったと思います。

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須藤氏:
 実は「Dの食卓」のときもイベントをやったんですよ。飯野さんがピアノを弾いて,ゲーム映像を流すっていう。「Dの食卓」はセーブが無くて,一通りプレイすると2時間くらいだったのでそれが出来たんですよね。その流れで,「エネミー・ゼロ」もイベントをやろうっていう感じだったのかな。

――「エネミー・ゼロ」はセーブこそできたものの,回数制限があったり,とにかく難度が高かったですよね。

須藤氏:
 ゲームバランス的なところは,全部飯野さんが決めてました。

佐藤氏:
 僕はセーブの回数を指示書でもらったのを覚えてます(笑)。

――マップもゲーム中には出てこなくて,プレイヤーが自分で書くしかなかったですよね。あと,エレベーターも普通に数字の階数ではなく,スイッチを駆使して上がったり下がったりするという……。

宮崎氏:
 誰が二進数って気づくんだっていうやつですよね。

上田氏:
 そうか,そんなに難しかったっけ?(笑)

須藤氏:
 あと確か,作中でローラ(声:駒塚由衣さん)は一言も話さないんですが,セーブかロードするときだけしゃべってくれるんです。あとエンディングも。

佐藤氏:
 それで言うと,ロード時に今までのエピソードを語るセリフがありました。「エネミー・ゼロ」でのローラは「ローラ・ルイス」なのに,最初の収録では「Dの食卓」の時の「ローラ・ハリス」になってしまっていたので,録り直しをしていただいたんです。

――「エネミー・ゼロ」に登場するクルーの声は,幸田直子さんに大塚明夫さん,大塚芳忠さん,玄田哲章さんという錚々たる声優陣が担当していましたね。

須藤氏:
 「エネミー・ゼロ」って音でしか敵の位置が分からない鬼畜仕様なのに,ゲームの終盤ではその音さえ聴こえなくなるんですよ。だから最後の最後は,デヴィッド(演:大塚明夫さん)が「右だよ」「左だよ」って,どこへ進めばいいか教えてくれるんです。
 当時,「ローラはしゃべらないから感情移入できない」みたいなことを言われてました。でも飯野さんのこだわり的に,あれは“「ファイナルファンタジー」じゃなくて「ドラゴンクエスト」”ってことなんですよ。プレイしている自分が主人公だから,ゲームの中では一言もしゃべってほしくないっていう。プレイヤーには伝わってないかもだけど(笑)。

佐藤氏:
 いま話を聞いてて思ったけど,そういえばWARPってサウンド担当もいなかったんだよね。敵を知らせるセンサー音とかは飯野さんが自分で作ったけど,そのほかの効果音はほぼ僕が作ってました。

宮崎氏:
 飯野さんは音楽のほうもあったから,それ以外のところはほとんどだったよね。

――あらためてお聞きしたいのですが,「『エネミー・ゼロ』はここがすごかった」と思う点はどこですか。

須藤氏:
 やっぱりムービーから始まってエネミーがいる空間に足を踏み入れて,グラフィックス的にはなにもないのに,「ポン,ポン」って音がなった瞬間「(近くに敵が)いる!」ってなる瞬間ですよね。
 あのゾワッとくる感覚は,なかなか体験できないものだと思います。ゲーム後半になると敵が増えて,「ピンピンピン」って複数の音が鳴り出してパニック状態になるのも,なかなか味わえないですしね。これは「エネミー・ゼロ」ならではだと思います。

佐藤氏:
 僕も“音で判断する”というアイデアがすごいと感じてました。あとはインタラクティブムービーって呼ばれていた映像部分と,リアルタイムのゲーム部分が割りとうまく融合できたところですね。
 「エネミー・ゼロ」は,もともと「Dの食卓」シリーズと共に“WARP三部作”と言われていたんです。「Dの食卓」がほぼ全編インタラクティブムービーで,二つめの「エネミー・ゼロ」はムービーとリアルタイムが半々,三つめの「Dの食卓2」についてはほぼリアルタイムでやる……という作りで。そこはうまくいったかなと思います。

須藤氏:
 当時のセガサターンの性能は,お世辞にも褒められたものではなかったんですよ。やっぱり処理能力とかはPlayStationのほうが高かったので……。ただモンスターを差し引いた,通路など“面”で構成された世界は,そこまでのスペックが必要とされていなかったので,そういった意味でもうまいアプローチで作れたと思います。

上田氏:
 制約がある中でうまくデザインされていたよね。

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宮崎氏:
 僕は昔のファミコン時代の,ドット絵のゲーム制作に近い感覚がありました。とにかく容量がないから使い回すとか,本当はもっとエネミーを見せたいんだけど,倒されるほんの一瞬しか用意できなくて。それもけっこう削ったんですが,まずはUI周りに加えて,壁や床や通路のテクスチャーを優先して……本当に容量が少なくて苦労しました。
 だから「エネミー・ゼロ」は,すごくシンプルなゲームだと思っています。

――そんな作り手も遊ぶ側も大変苦労した「エネミー・ゼロ」は,広告も印象的でしたよね。

須藤氏:
 あれだけ鬼畜な仕様だったのに,飯野さんが広告にはカヒミ・カリィさんを起用してライト層を取り込もうみたいな考えがあったりして(笑)。

――あのインパクトのあるロゴも飯野さんの制作ですか。

上田氏:
 そうでしたね。

須藤氏:
 ロゴができると,いつもめちゃくちゃニコニコしながら,「ちょっと来てくれる?」とか言って。褒めてもらいたくてしょうがないのが丸分かりなんですよ(笑)。

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――もし今,また「エネミー・ゼロ」のような“見えない敵”というテーマでゲームを作るとしたらこうしてみたいといったアイデアはありますか。

宮崎氏:
 VRで作ったら怖いんじゃないですかね?

須藤氏:
 いいね,確かに!

上田氏:
 怖すぎる内容になりそう(笑)。

佐藤氏:
 自分が向いている方向で音が変わるから,本当にVRは向いているかもね。位置情報と向き,距離も取ってるから,敵が近付くと音の間隔が短くなっていくし。

須藤氏:
 あと僕の個人的な意見としては,ストーリーを「エイリアン」から少し外したいです。当時は,「エネミー・ゼロ」って「得体の知れない宇宙生物を兵器として地球に持ち帰る」っていうところが,「エイリアン」のプロットとそっくりだってよく言われてたんですよね。でも,飯野さん的にそこは全然重要じゃなかったんですよ。
 「エイリアン」って僕達がゲームを作っていた頃でもすでに古典のSFだったから,よくある話の一つぐらいの感じで存在していたので。だから,そこまで「エイリアン」だって言われるなら,その部分は直してもいいのかなって思ったりはしました。

上田氏:
 確かに。「一艘の宇宙船の中でのドラマ」ってネタとしてはいいと思うし,制限があることで作りやすそうだなとも思います。ただ「閉鎖空間の中でどうするのか」ってシチュエーションだけで言うなら,そういうゲームは今となってはたくさんあるというジレンマもありますね。

――そろそろお時間です。あらためて,「エネミー・ゼロ」やWARPの作品が皆さんのクリエイター人生にどんな影響を与えましたか?

須藤氏:
 影響はめちゃくちゃありましたね。余談なんですが,実は僕がWARPを辞めて次に入った会社で作ったのが,“韮沢 靖さんがデザインした見えない敵”だったんですよ(映画「ファイナルファンタジー」)。また見えない敵か! って(笑)。

上田氏:
 えっ! そうか,あれも韮沢さんだったんだ。
 僕も,「やればできる」っていう当時の経験は今も生きてますね(笑)。WARPにいたのは25歳くらいでしたけど,自分の限界に挑戦する精神力やタフネスが身に付きました。そこは「エネミー・ゼロ」にとても感謝しています。

佐藤氏:
 それまでは,移植やサブの仕事が多かったのですが,「エネミー・ゼロ」は初めて自分の采配でいろいろやらせてもらえた作品でした。ここでの経験が後にいろいろな作品でメインとしてやらせていただく力になったと思っています。

宮崎氏:
 飯野さんのいつ何時も何物にも縛られない自由な発想,そしてそれをちゃんと言葉で出力。今でも羨ましく感じていますし,自分では難しいところですが,そうありたいと思っています。

――ありがとうございました。

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<こぼれ話>

 飯野氏の妻であり,フロムイエロートゥオレンジの代表を務める由香氏の要望により,エピソードを一つ紹介する。

 「エネミー・ゼロ」には,知る人ぞ知る「スペシャルボックス」という限定版が存在した。外側の木箱だけでも数万円,その中にはソフトのほかにもゲームに登場する武器のモック(もちろん非売品)やコンパニオンの衣装など,さまざまなお宝が詰め込まれており,価格はなんと20万円。
 だが発売と同時に,用意されていた20個は完売した。さらにこのボックスは,飯野賢治氏自らが届ける(WARP社員とともに2トントラックで全国を回った)というサービスまであったのだ。

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 今回の座談会を控えたある日,そのボックスを購入したうちの1人,Aさんの友人であるBさんから由香氏に連絡があった。話を聞くと,病気により余命宣告を受けたAさんが身辺整理を意識した時に真っ先に浮かんだのがボックスで,身寄りのないAさんはBさんに「頼みがある。ボックスをWARPに返してほしい」と,遺言のようにボックスを託したのだという。
 由香氏が承諾すると,とある遠方の島に住むAさんの元から別の友人がボックスを送ってくれた。そして由香氏は,思い出の品としてボックスを座談会の場に持ち込んだ。それから「ぜひAさんにメッセージを届けたい」と,座談会に参加した元WARPメンバーによるビデオレターを作成。その日の夜,Bさんに送った。

 その頃のAさんは病状が進行し,すでにスマートフォンなどの操作ができなくなっていた。Bさんはすぐに島へ出向き,入院中のAさんに映像を見せた。Aさんは会話が困難になっていたが,映像を見て,うれしそうな表情を浮かべていたという。

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