
業界動向
Access Accepted第821回:UbisoftがTencentの巨額資本を受けて子会社設立。創立からの歴史を振り返り,その狙いを考える(前編)
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フランス大手パブリッシャのUbisoftが,Tencentから11億6000万ユーロ(約1890億円)もの出資を受けて,「アサシン クリード」「Far Cry」「レインボーシックス」という3つの看板ブランドの開発を行う子会社を設立することをアナウンスした。すったもんだの末にローンチされたばかりの「アサシン クリード シャドウズ」で知られる同社は,来年で設立40周年を迎えるが,前編では同社のこれまでの歴史をまとめて振り返ってみよう。
農業分野から転身したヨーロッパ随一のパブリッシャ
Ubisoftは1986年3月28日に,ブルターニュ地方の名家であるギルモ家の5兄弟によって設立された。ギルモ家はブルターニュ地方の農家に対して,運搬や会計,薬品販売などを請け負う家族経営のビジネスを展開していたが,1980年代に入ると農業ビジネスの収益が落ち込んできたこともあり,コンピュータやソフトウェアの販売に着手し始める。
もともとはメールオーダーでソフトウェアを販売していたが,そこから小売店との流通経路が開け,とくにゲームソフトの販売が著しかったことにより,正式に起業されたのだ。
彼らの最初の作品は,Amstrad CPCというヨーロッパ圏のみで販売されていた8ビットのホームコンピュータ向けタイトル「Zombi」で,5000本ほど販売したとされる。当時はブリッタニーの邸宅に数名の開発者を出入りさせてゲームを開発しているような状態だったが,パリに本社を構えてスペインや西ドイツ(当時)などにも販路を広げていったという。
そしてパリ近郊のElite Softwareが1987年に開発した「Commando」が1万5000本のセールスに達し,1988年には当時28歳ながらも経営学修士号を取得していた末弟のイブ・ギルモ(Yves Guillemot)氏がCEOとして着任することになった。
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こうして順調に成長を続けたUbisoftが,最初にグローバルヒットを獲得したのが,1995年にAtari Jaguar向けにリリースした2D横スクロールアクション「Rayman」だ。手首や足首がないのに手足の動きが滑らかに見える本作は,コンピュータアニメーションに熱中するあまりに高校を中退していたグラフィッカーのミシェル・アンセル(Michel Ancel)氏が,1988年にギルモ家直属のゲーム開発メンバーとして16歳で雇用されていた頃から温めていたプロジェクトだ。
より広いスペースと人材を求めて開発本部をパリに移動させたギルモ兄弟は,アンセル氏もパリについて来ることを要請したが,アンセル氏の両親はパリで生活できるほどの経済的余裕はないとして,子供たちを連れて故郷の南フランスに帰ってしまった。
しかし,そこでアンセル氏は運良くプログラマーのフレデリック・ホウデ(Frédéric Houde)氏に出会い,意気投合し,成人になると「Rayman」のプロトタイプを持ってパリに凱旋。四男のミシェル・ギルモ(Michel Guillemot)氏は,このデモを見て現在のヘッドクォーターでもあるモントルイユに開発スタジオを創設し,最終的には100人もの開発者を雇用して,新世代ゲームの開発にあたった。
結果「Rayman」は,豊かなアニメーションを持つ“フランス生まれ”のゲームキャラクターであることが高く評価され,セガサターン,PlayStation,MS-DOSなどのプラットフォームにも移植された。
とくにローンチタイトルとなったPlayStationでは,ヨーロッパを中心に大当たりして90万本を販売し,イギリスでは初代PlayStationの最も売れたゲームとして記録されている。この「Rayman」の収益が,Ubisoftが1996年に上場し,国際的なパブリッシャとして躍動する契機を作ることになったのだ。
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3つの看板ブランドを次々と手中に
Ubisoftは,上場して確保した8000万ドル(当時)を元手に,フランスのアヌシー(1996年),中国の上海(1996年),カナダのモントリオール(1997年),イタリアのミラノ(1998年)と開発スタジオを拡大していった。
さらに,インターネット時代を迎えたことを見抜いたギルモ兄弟は,1999年にFree-to-Play型のゲームを開発するGameloftを設立し,ミシェル・ギルモ氏が率いることになった。これにより,ギルモ兄弟はUbisoftの資産の権利をGameloftにライセンス供与できるようになり,Ubisoftの企業評価額は一気に5倍にも増加する。
この資金で,まだ認知度の低かったアメリカの足掛かりとするため,人気作家だった故トム・クランシー(Tom Clancy)氏が設立していたRed Storm Entertainmentを2000年に買収し,ダイナミック・ライティングなどの当時の最新テクノロジーを詰め込んだ「スプリンターセル」(2002年)から「レインボーシックス シージ」(2015年)までのトム・クランシー作品群を手に入れたのだ。
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さらに,2001年には教育ソフトで知られるThe Learning Companyが倒産したことで,その知的財産が競売にかけられたのだが,そのとき黎明期の北米ゲーム産業を支えたゲームIPの1つであった「プリンス・オブ・ペルシャ」を獲得した。Ubisoftはこの資産を生かして,「Prince of Persia: Sand of Times」(2003年)と「Prince of Persia: The Two Thrones」(2005年)をリリースした。
ちなみに,Ubisoftと言えば,渦巻き型メーカーロゴをイメージする人も多そうだが,2003年頃からあの渦巻きロゴが利用され始めている(現在はさらに刷新され,モノクロデザインになっている)。
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2004年3月にUbisoftがリリースしたのが,ドイツのCrytekが開発した「Far Cry」だ。元々はNVIDIAのテクノロジーデモである「X-Isle:Dinosaur Island」として,1999年頃からフランクフルト近郊の田舎町でヤルリ(Yarli)兄弟(のちのCrytek創業者)が開発を続けていたもので,Ubisoftが販売権を獲得し,発売に漕ぎつけた。
ところが,ゲーム業界でも絶賛されたCryENGINEに可能性を見出したCrytekは,その4か月後の7月に,UbisoftにとってはライバルであるElectronic Artsとの提携をアナウンスし,やがて「Crysis」となるプロジェクトの開発を発表する。
結局,Crytekには複数のプロジェクトを回す体力もなかったこともあって,「Far Cry」のIPはUbisoftが保有することとなり,2008年にリリースした「Far Cry 2」では,CryENGINEをチューンアップさせたDuniaエンジンが利用された。
話は前後するが,2006年に開催されたGame Developer Conference(GDC 2006)で,このシリーズのアニメーション開発を担ったUbisoft Montrealのメンバーが,壇上で新作について紹介したときのことが今でも忘れられない。
パトリース・デジーレ(Patrice Désilets)氏と,ジェイド・レイモンド(Jade Raymond)氏という血気盛んな開発者が紹介していたのが,Prince of Persiaシリーズで開発したものをさらに向上させた,滑らかなアニメーション技術だった。
当時の取材記事を見ると分かるが,デジーレ氏が「Organic Design」と呼んでいた,のちの「アサシン クリード」(2007年)のシリーズ最大の特徴であるパルクールや,身をかわしながら群衆の中を行くソーシャル・ステルス機能が,まだ正式発表もされていない時点で惜しみもなく紹介されていたのだ。
当時は「The Assassins」というコードネームで公開されていたテクノロジーデモが,やがてUbisoftのバックボーンを支える看板タイトルに成長していったことを思うと,非常に感慨深いものがある。
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巨大化するパブリッシャの隆盛と凋落
こうしてUbisoftは,グルーバルにアピールできる看板アクションブランドを手中に収めることになった。以降,「アサシン クリード II」「ブラザー イン アームズ ヘルズハイウェイ」「Just Dance」「アサシン クリード: ブラザーフッド」「ドライバー:サンフランシスコ」「Anno 2070」「RAYMAN Origins」「ゴーストリコン フューチャーソルジャー」「Rocksmith」……と自社タイトルのヒット作を連発し,2015年には9200人もの雇用者を抱える,世界トップクラスのパブリッシャに成長していった。
ところがこの頃,フランスの巨大メディア企業であるVivendiにより,敵対的M&A工作が進められていたことは,当時の当連載でも詳しく書いたとおりだ。2016年にはGameloftが買収され,「30%は危険ゾーン」と言われる中で2017年には25.15%の自社株を買い占められるなど,5年にもわたる防衛戦を繰り広げることになった。
筆者の社会人1年目が1995年であり,その冬に発売されたPlayStationのローンチタイトルが,「リッジレーサー」「Rayman」だったこともあり,筆者のゲームジャーナリストとしての歩みは,Ubisoftの成長と重なる。E3の前座的に開催されている自社カンファレンスUbisoft Forwardの取材も,ほとんどの年で取材していた。
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その中でも,2017年のUbisoft Forwardでは,同社は任天堂と組んで「マリオ+ラビッツ キングダムバトル」をアナウンスしたほか,良い意味でも悪い意味でもシリーズのRPG化を推進させた「アサシン クリード オリジンズ」,その後7年近くも発売されなかった「スカル アンド ボーンズ」,カルト教徒との戦いを描く「Far Cry 5」などが紹介され,ゲーム開発者が一丸となって新作に取り組み,投資家たちを満足させようと奮闘する経営陣の意気込みが感じられた。
ところが,2019年にはVivendiによる敵対買収劇に勝利宣言したのも束の間(関連記事),Ubisoftの株価は下降に転じ始める。この4年間で従業員数は1万6000人まで増加していたが,「Far Cry New Dawn」や「ディビジョン 2」など,シリーズの焼き直しやフォーミュラ化が顕著で「Ubiゲー」とも揶揄されるタイトルが多くなり,ゲーマーたちの食指が動きにくくなっていった。
また,Ubisoftは開発現場でセクハラが横行していたことも暴露され,ギルモ兄弟は関わっていないながらも,経営者として見過ごしてきたことが問題視された。さらに新型コロナ感染症によってリモートワークが奨励されると,プロジェクトの遅延も目立つようになり,それを補うべく2022年までに2万660人もの従業員を抱え込むが,結果として「スター・ウォーズ 無法者たち」や「アサシン クリード シャドウズ」のような,ゲーマーの一部から反発されてしまうタイトルを生み出す形となった。
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驚くべきことに,「アサシン クリード シャドウズ」のPC版のエンドロールは,3時間半にも及ぶ。確かにスタッフ1人につき,1行という贅沢なペースで流れていくが,同じ趣向でエンドロールが作られた「アサシン クリード ヴァルハラ」は40分,人員が多そうなRockstar Gamesの「レッド・デッド・リデンプション 2」でも35分ほどだ。
しかも,エクゼクティブプロデューサーであるマーク・アレクシ・コテ(Marc-Alexis Côté)氏が,昨年末の開発者イベントで明らかにしたところによると,「アサシン クリード シャドウズ」に関わった数千人の開発者のうち,50%は「過去にゲーム開発に従事したことのないジュニアレベル」であると明かしている(関連URL)。
そういった背景を踏まえると,短い滞在期間なのに人々の心を掴み,日本語も武士道も完璧に理解しているという弥助のキャラクター設定をはじめ,違和感を覚えてしまう要素が散見されるのも仕方がないことなのかもしれない。オブジェクトを破壊するシミュレーション機能がゲームエンジンに加えられたが,それを現在も信仰する人がいる神社仏閣,罪もない物売りたちに対して使えてしまうのも反発を生んで然るべきだろう。
Ubisoftが,世界に散らばる50社近い傘下スタジオに大量の従業員を抱えるのは,コテ氏によると「ゲーム産業の成熟に伴う人手不足を補うため,サードパーティに頼らず有能な人材を確保しておく」のが理由であるとしているが,50%もの人員が開発未経験だったのであれば,余りにも非効率であると言わざるを得ない。
Ubisoftが昨年発行した財務報告によると,国際財務報告基準での準負債は14億ユーロにも達しており,「アサシン クリード シャドウズ」の成功にかかわらず,次のプロジェクトの予算確保が困難な状況で,2025年内には経営破綻していた可能性も指摘されている。
実際,2022年にはTencent Holdingsから3億ユーロにも及ぶ融資を受けたことをアナウンスしているが(関連記事),それも焼け石に水でしかなく,その切実な懐事情が,今回の「Tencentと提携して新会社設立」というアクロバットにつながったわけだ。
さて,ここまでUbisoftの歴史を振り返ることに注力させてもらったが,前振りだけであまりにも長くなってしまったので,ここで一区切りとさせていただきたい。次回の当連載では,Ubisoftが今回の提携によって,今後どのように改革されていくのかについてまとめていく。
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著者紹介:奥谷海人
4Gamer海外特派員。サンフランシスコ在住のゲームジャーナリストで,本連載「奥谷海人のAccess Accepted」は,2004年の開始以来,4Gamerで最も長く続く連載記事。欧米ゲーム業界に知り合いも多く,またゲームイベントの取材などを通じて,欧米ゲーム業界の“今”をウォッチし続けている。
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