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ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る
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印刷2024/08/30 07:45

インタビュー

ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

専用の機材が無い中,暑い暗室に籠もり,医療用の機器も駆使してゲーム誌の誌面を作る


4Gamer:
 当時は誌面作りも大変だったのではないかと思います。特に画面写真などはどうやって撮影していたのでしょうか?

塩崎氏:
 TVプリンターなんて便利な物はないから,暗室にゲーム機を置いてカメラマンが撮るしかなかったんです。1984年〜1986年辺りは画面写真=暗室のカメラだったので,画面撮影が得意なカメラマンが結構いたと思います。雑誌を作るのにカメラマンは絶対に必要ですから,編集部付きのカメラマンに画面撮影を覚えてもらうわけですよ。この頃は全国にこうしたカメラマンがかなりの数いたんじゃないかな。

山本氏:
 写真撮影だけじゃなくてトレスコ(トレススコープ。写真などをレイアウト用紙に映写し,なぞって描く)も暗室でやってました。

画像集 No.012のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

塩崎氏:
 ゲーム側にも今のようなセーブやバックアップの機能もないし,毎回最初からゲームをプレイして,いいところでポーズをかけるわけです。すごく時間がかかりましたよ。しかも暗室は暑いし(笑)。

山本氏:
 ポーズをかけるとキャラクターが消えるソフトもありましたから,単にポーズすればいいわけじゃないですしね。

塩崎氏:
 そのまま撮影しても,画面がにじんだりブレたりする。だからリセットボタンを押しっぱなしにして画面を停止させたり,強制ポーズスイッチを取り付けたりしてましたね。

山本氏:
 ジャレコさんが「ファミコンテレビC1」にCPUを強制停止させるトグルスイッチを付けているのを見たから,やり方を教えてもらって編集部でも同じ改造をしたんですよ。あんまりやり過ぎるとバグるんですけれど(笑)。

※ファミコンテレビC1:ファミコンの機能を内蔵したテレビ。ファミコンとは違い,RGB出力なので画面が鮮明

4Gamer:
 改造のやり方が人づてに伝わっていくわけですね。

山本氏:
 最初にこの改造を考えたのはトーセさんだそうですよ(笑)。

4Gamer:
 では,ずっと強制ポーズスイッチで撮影を続けていたのでしょうか?

山本氏:
 そういうわけではないですね。1986年頃には初期のビデオプリンタが出ていたので,カメラマンなしでも画面撮影ができるようになりました。

塩崎氏:
 あの頃のビデオプリンタって画質悪くなかったですか?

山本氏:
 東芝の箱形のヤツがあって,それはRGBやコンポジットなどの入力ができて良かったですよ。奥に10インチくらいのブラウン管が付いていて,35ミリフィルムを入れてボタンを押すだけでクッキリとクリアに撮影できました。

塩崎氏:
 「ファミ通」は1987年くらいまではカメラで撮ってた気がします。マップを作るときはビデオプリンタで撮っておき,撮影したものに上からトレーシングペーパーを掛けて「マッパー」という仕事の人が正確にトレースするんです。だから,プリントアウト自体はモノクロでも大丈夫でした。

山本氏:
 「テクノポリス」でマップを作るときは,心臓なんかのエコー写真をプリントする機械を使ってましたね。

4Gamer:
 それは医療用の機械ということですか?

山本氏:
 そうです。ゲーム雑誌で使われているビデオプリンタは大体医療用でした。

4Gamer:
 医療用の機械をゲーム雑誌の編集に使うというのは,どこからの発想だったのでしょう?

塩崎氏:
 噂が伝わってくる感じでしたね。

4Gamer:
 器材が特殊だと費用もかかるんじゃないでしょうか?

山本氏:
 当時使っていたソニーのビデオプリンタは本体が1台100万円くらい,印画紙とリボンのセットが100くらい入ったセットで5万円くらいでした。この5万円のセットを1号あたり何パックも使うわけですよ(笑)。

画像集 No.013のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

4Gamer:
 必要経費とはいえ,豪快ですね。

山本氏:
 ビデオプリンタと消耗品のセットを合わせて20kgくらいになるんですが,任天堂に取材に行くときはこれをガーッと引っ張っていくわけです。

4Gamer:
 今では考えられない話ですね。

山本氏:
 当初はメーカーが「ファミマガ」編集部に画面写真を撮りに来てたくらいですからね。印刷所からの技術提供もありましたよ。「ファミマガ」では,PC-9801にファミコンの機能が搭載されているキャプチャ基板を接続したものを2〜3台使ってました。ファミコンの画面がキャプチャ基板のメモリに落とし込まれ,PC-9801で走っているデジタイズ用ソフトの画面に出てくる。そして,これをRGBで多重露光させるシステムがあったんです。

4Gamer:
 雑誌編集者の労働条件も今とは大きく違っていたと思うのですが,実際はどうだったのでしょう?

塩崎氏:
 徹夜も,椅子で寝るのも当たり前でしたね。帰る人は帰るけど,半分くらいは編集部で寝泊まりしてました。そのかわり,夕食とか夜食代が会社から出るんです。深夜1時頃に立場の弱い新人たちがジャンケンをして,負けた人が牛丼を買いに行くみたいな(笑)。

山本氏:
 ウチの編集部は新橋だったから,朝4時くらから開いてる店がありましたね。コンビニも近くにありましたし,24時間どこかが開いてるという状況でした。

塩崎氏:
 当時の南青山にはコンビニもなかったよ(笑)。

4Gamer:
 今は徹夜もしづらいし,そもそも会社にずっと残っていられないような状況ではあります。紙の本を作るにしても,昔は誌面のデータなんかをバイク便に運んでもらっていたものが,今はネットでデータをアップロードできますし。

塩崎氏:
 ファミ通の場合,朝7時に写植屋の人が来るので,それに間に合うようにみんなが必死で原稿を書くんです。帰ろうとする写植屋を止めたりもしていましたし,間に合わない人は頭を下げながら写植屋に原稿を持っていく。

画像集 No.014のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

4Gamer:
 ギリギリまで入稿を待ってもらうようなことも多かったのでしょうか?

塩崎氏:
 金曜が入稿のラストなんですが,頭を下げれば土曜の夜までなんとかやってくれましたね。月曜の朝に機械を回さないといけないから,土曜の夜に原稿を差し替えたりしてました。

4Gamer:
 結構融通が利いたんですね。

塩崎氏:
 フルカラーだし,特色も使ってるし,部数も多かったから(笑)。

4Gamer:
 「ファミ通」も「ファミマガ」も,印刷には同じ凸版印刷を使っていたんですよね?

山本氏:
 そうそう,同じ。だから一回「ファミ通」のゲラが間違えてウチに来たことがあったんですよ(笑)。ここで滞ると「ファミ通」の雑誌が間に合わないから,ウチから「ファミ通」に電話してゲラを返すんですよ。

4Gamer:
 これがドラマなら,ゲラを隠すところですね。校正も大変だったのではないですか?

山本氏:
 毎週土曜の夜は凸版印刷の出張校正室に行ってましたね。大体横に「ぴあ」がいるんですよ(笑)。守衛さんとも顔見知りですし。最後の最後は水道橋の製版所に行くんです。そこで誤字が見つかると大変でしたね。どうしようもないから製版所の方が手描きで直してくれるんですよ(笑)。

塩崎氏:
 その先の“倉庫校正”というのを1回やったことがありますね。本が刷り上がったあとにバーコードの間違いが見つかったんですよ。本来は火曜日の夕方から配本するんですが,午前中に間違いが発覚したので,午後からみんなで倉庫に出向き,ずっとバーコードの上から白いシールを貼りましたね。とはいえ,刷り部数30万部の半分近くは処理が必要だったので,途中からマジックで線を引いて読み込めなくしていきました。

4Gamer:
 配本は間に合ったんですか?

塩崎氏:
 ギリギリ水曜日の朝まで待ってもらってなんとかなりました。「ファミ通」は金曜日発売なので,本来は火曜日の夕方から配本をするんですが,水曜日の朝でもなんとかなるんです。そのかわり地方の遠いところが遅れてしまいますけれどね。当時はコンビニや大きな書店くらいしかバーコードを使ってなかったという事情はありますが,本屋さんには謝罪の電話を掛けまくりました。

山本氏:
 ウチでも「スーパーマリオブラザーズ3」の増刊ムックで,雑誌コードが違うという事件が起こりましたね。編集部ではなくて制作管理の責任でしたが,編集スタッフも全員倉庫に行ってマジックで塗りつぶしましたよ。あと「ストリートファイターII」のハードカバーの“CHAMPION EDITION”でしたが,奥付の定価が間違っていたことがありました。販売部の人たちが総出で砂消しを使って間違った数字を削っていったんです。

塩崎氏:
 雑誌コードや定価の間違いはヤバいよね。その次は電話番号の間違いかな。僕も何回かやっちゃってるんですけど,あれは注意しても間違えるんですよ。一般のお宅の電話番号を間違えると本当にヤバい。

山本氏:
 そして表紙の誤植は,外部の人には怒られませんが恥ずかしいんですよ。

画像集 No.015のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

4Gamer:
 雑誌に間違いは付きものとはいえ,ほかに迷惑がかかる間違いは辛いですね。

山本氏:
 製版所の人がゲーム雑誌に慣れてくると,写真の間違いを指定してくれるようになりましたね。「この連続写真,順番が逆ですよ」って(笑)。

4Gamer:
 話は変わりますが,「ファミ通」にはいろいろな付録が付いていたという印象があります。

塩崎氏:
 取次さんに話を聞いて「別冊は2個まで,それ以上付けたい場合は綴じ込みにしてくれ」という了解を得たので,その後はどんどん付録を付けていきました。

山本氏:
 「ファミマガ」の場合は取次さんが付録に難色を示したんですよ。でも,結構,無茶苦茶やってましたけどね。

塩崎氏:
 一度許してくれたら「ああ,大丈夫なんだ」って(笑)。

山本氏:
 そのうち,印刷所から釘を刺されるんですよ(笑)。

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4大ファミコン誌の時代から「ファミ通」「ファミマガ」のシーソーゲームへ


4Gamer:
 当時は読者層の被りを意識することはあったのでしょうか。

山本氏:
 「ファミマガ」は小6〜中2が読者層の中心だったので,「ファミ通」とはともかく「マル勝」とは被りがありました。

4Gamer:
 「ファミマガ」と「マル勝」の読者層が近いというのは少し意外な気がします。「ファミマガ」は老舗のファミコン誌ですし,「マル勝」は角川書店のマルチメディアを押し出していたので。

山本氏:
 徳間書店はマルチメディア戦略の先駆者で,そうした意味では角川と狙っているところが近いライバルなんですね。

4Gamer:
 そういえば,当時は「ファミマガ」の「ラグランジュポイント」や「ハイスコア」の「ゾンビハンター」のように,ファミコン誌がゲームに関わることもありましたよね。

山本氏:
 徳間書店では「ゴーストバスターズ」のようにプロデュースしつつ開発を外注するパターンも多かったです。「ラグランジュポイント」は開発がコナミで,「ファミマガ」は読者公募の窓口や審査を行うという関わり方でした。「企画書を書け」といわれて書いたことはありますが,実際にゲームになることはなかったです。そういえば,映画「敦煌」のゲームを上映に合わせて作れ,という話もありましたね(笑)。制作の大映は当時徳間書店の子会社でしたから。

4Gamer:
 あの映画をゲーム化するというのはなかなか大変ですね。どういうジャンルがいいのか,ちょっと見当も付きません。「ログイン」でもいろいろなゲームが発表されていましたね。

塩崎氏:
 「ログイン」は元々プログラムを載せる雑誌でしたし,「ディスクログイン」や「テープログイン」などを出してましたよ。僕は僕でいろいろなゲームを一杯作ってましたし(笑)。「ログイン」編集部は雑誌がメインでゲームがサブなので,好き勝手にゲームを作れるんですよ(笑)。ゲーム作り専業の人よりも気持ちはすごく楽ですし。

※「ディスクログイン」「テープログイン」:フロッピーやカセットテープに読者投稿のプログラムなどが収録されていた。買えば自力で入力しなくてもゲームを遊ぶことができた

4Gamer:
 ゲーム専業のソフトハウスではないので「白夜に消えた目撃者」が出なくても,そこまで問題にはならなかったわけですか?

※「白夜に消えた目撃者」:未発売のアドベンチャーゲーム。堀井雄二氏がシナリオを書く予定で,そのためのロケハンが「ログイン」に記事として掲載された

塩崎氏:
 そうですね(笑)。これがソフトハウスだったら,予告したソフトが出ないんですから大変なことですよ(笑)。あくまで「ログイン」という雑誌を作るうえでの話なので,8ページの記事を2本作ってますから,それほど問題にはなりませんでした。ただ,ゲームの完成を待っていてくれた人たちには,ちょっと申し訳なかった。

4Gamer:
 今回の単行本には,堀井雄二さんと宮野洋美さんと塩崎さんがソ連に行った取材旅行の記事がありましたね。

画像集 No.017のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

塩崎氏:
 述べ15日の取材旅行まで実施した企画でしたが,最終的にはファミコン版「オホーツクに消ゆ」の移植を優先しました。当初のファミコンはROM容量も少なくて,作れるものに限界がありました。いろいろなアニメや漫画をゲーム化したいという話もいただいたんですが,絵が表示できないから無理でしょう……ということになったんです。ですが,任天堂がROMの容量アップに力を入れ始めてからは状況が急に変わりましたね。

4Gamer:
 ファミコンが長く愛され続けたのも,任天堂の姿勢があったからこそというわけですね。この頃はゲーム業界に初参入するメーカーも多かったと思いますが,編集部はそういったところとどうやってコンタクトを取っていたのでしょう?

山本氏:
 アーケードやパソコンゲームを出していたメーカーは山森さん(尚氏。「ファミリーコンピュータMagazine」初代編集長)が知ってました。ほかのメーカーは任天堂から教えてもらったんじゃないかな……? あとは広告出稿の問い合わせが来て参入を知るとか。

塩崎氏:
 そこがウチとの違いですね。1986年の「ファミ通」は広告が3ページとか5ページでしたから(笑)。

4Gamer:
 広告を出す前に「記事を載せてください」と売り込んだほうが効率は良さそうに思えます。

山本氏:
 当時は業界も黎明期だから,そうした要領が分かってなかったんでしょう。広告にしてもユーザー向けのものと問屋向けのものでは出すタイミングが違いますし,問屋向けの広告にしたいのであれば発売からもっと手前に出さないといけない。だから記事として取り上げる何か月も前から広告を載せてくれという話は結構ありましたね。

4Gamer:
 「ファミマガ」をトップとした4大ファミコン雑誌の時代は続いていくわけですが,「魔界村」に関して「ファミマガ」と「マル勝」がやりとりしていたことがありましたね。

山本氏:
 「マル勝」さんはアーケード版の「魔界村」を使ってファミコン版の攻略記事を書いていた。なのでそれを「ファミマガ」が誌面で突っ込んだんです。

塩崎氏:
 「ファミ通」はそれを見て「ファミ道楽」のコーナーで「仲良くしようよ!」って茶々を入れている(笑)。

山本氏:
 「ファミマガ」では「マル勝」の「マル勝テクニック」をもじった「マル負テクニック」なんてコーナーもありましたね(笑)。徳間書店で「マル勝PCエンジン」の商標を取ったら,小島さんから「ウチは徳間が出しそうな本の商標を取った」といった連絡が来たこともあったそうです(笑)。まあ,友だち同士のじゃれ合いみたいなものでしたよ(笑)。

塩崎氏:
 そういえば,個人的に山本さんと話したのは,先ほど話題にでた,編集長4人が呼ばれた会が初めてでしたね。あとは「編集長どうしで結託しないとね」って話したときかな。

4Gamer:
 結託ですか?

画像集 No.018のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る
山本氏:
 ゲームメーカーが増えてくると広告も増える。そうすると営業から「週刊にしろ」ってせっつかれるんですよ。週刊にしようものなら,どれだけ酷いことになるかも分かっていたから,みんなで「週刊にするのは止めておこう」と結託した(笑)。

4Gamer:
 そんな示し合わせがあったんですね。その後もブームは続き,いろいろなゲーム機も現れてきます。ゲーム機が林立するような時代に,それぞれどのような戦略をとりましたか。

山本氏:
 「ファミマガ」は「PC Engine FAN」や「メガドライブFAN」といった,さまざまな雑誌を出す方向に舵を切りました。一冊の雑誌ですべてのゲームを扱うのは結構大変ですから。いろいろなものが混じってくると,一緒に載っていてはおかしいというものがありますし。だから「ファミマガ」の前の「テクノポリス」もコーナーで好評だったものから別の雑誌に分かれていくという方針でした。ただ,そのやり方だとハードウェアメーカーの浮き沈みと雑誌が連動してしまって。

塩崎氏:
 ファミ通は「○○ゲーム通信」というコーナーを作って全部一緒に入れてたね(笑)。

4Gamer:
 専門誌を多数出す「ファミマガ」と,総合誌を志向する「ファミ通」。それぞれに戦略も違うわけですね。先ほど塩崎さんは,「まず『ファミマガ』に情報が出るという状況をなんとかしないといけないと考えていた」とお話しされています。メーカーに働きかけるようなことはしたのでしょうか?

塩崎氏:
 働きかけはしていましたね。1988年あたりからは“あるゲームの最新情報は,特定の雑誌が最初に発表する”というように,雑誌がゲームを囲い込むようなことが始まってましたから。こうなると,同様の方向性で対抗できるものは対抗しなければならない。

4Gamer:
 ファミコンブームが大きくなるにつれ,情報の価値も急上昇していったということですね。さまざまな雑誌がライバルとしてしのぎを削り合う中,印象的だったことはありますか?

山本氏:
 ある時,「ファミ通」に「負けたな」と思ったことがありましたね。ゲームメーカーが問屋やショップ向けに流す販促資料を見た時のことです。こうした資料には,ゲームの記事をどの媒体に掲載するかの予定が書かれているんですが,それまでは「ファミマガ」「ファミ通」「マル勝」の順番だったのが,ある日大きなメーカーの販促資料を見ると「ファミ通」がトップに来てたんです。これはダメだ,どこかで逆転されるぞ……と思ったのを覚えています。

塩崎氏:
 それは1988年とか1989年じゃない? 本屋さんを見ると,平積みになってる量が明確に違ってきてるから。

山本氏:
 シーソーゲームみたいになってたんですよね。

4Gamer:
 塩崎さんは「これで勝った」と実感した瞬間はなかったんですか。

塩崎氏:
 とくにありませんでしたね。シーソーゲームの期間が1年くらい続いて,いつの間にかといった感じです。

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山本氏:
 スーパーファミコンが出たあとは,またシーソーゲームになりましたけど,その頃はカプコンとコナミの攻略本の優先権を「ファミマガ」が獲得できたのが大きいですね。開発者を紹介してもらったおかげで,発売の半年以上前にゲームの情報をすべて掴んでいましたから。部内の体制が変わるタイミングだったので,付録の方向性も変えてメーカー特集の付録を付けたり,「ストリートファイターII」を持ってきたりもしました。「ストリートファイターII完全攻略本」は「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」の次に儲かったんじゃないかな(笑)。
 ただ,この頃の「ファミ通」はさまざまな機種を扱う総合誌として完全に確立してました。「ファミマガ」はファミコン誌,任天堂誌のトップでしかなかったので,もはや土俵が違ったんです。

4Gamer:
 ゲーム界が変化し続ける中でゲーム雑誌の勢力図も変わっていき,スーパーファミコン時代以降もさまざまな本が現れていく……と思うと感慨深いものがあります。ファミコンブームを俯瞰したうえで,個人的に好きだったファミコンソフトを挙げていただけますか?

塩崎氏:
 僕は「ゼビウス」ですね。敵のアルゴリズム,BGM,操作感といった完成度が高かった。1本ですべてが変わりましたし,このゲームがなければ,今のゲーム業界に存在しているいろいろなものもなかったと思います。ファミコン人気を不動にしたものだと思います。

山本氏:
 「ゼルダの伝説」か,仕事も含めてやり込んだ「ファイナルファンタジーIII」ですね。スクウェア(現スクウェア・エニックス)から編集部に「デバッグに参加してほしい」という要請があり,坂口さんたちがゲームの仕上げをしている横で泊まりがけでプレイしました(笑)。5〜6個のバグを見つけて最後の「クリスタルタワー」の手前で時間切れになったんですが,いざ発売されてみるとクリスタルタワーにバグがあって(笑)。

4Gamer:
 メーカーと雑誌の距離感が今よりも近かった時代ですね。

山本氏:
 距離感が近いといえば,とあるメーカーの人が酔っ払って夜中の2時くらいに編集部に来たことがありましたよ(笑)。「こんにちは! 今後もよろしくお願いします!」って(笑)。

4Gamer:
 今では考えられないハプニングですね。お二人は新たに勃興していくゲーム雑誌を作り上げてきたわけですが,当時の編集部員たちを育てるうえで心がけていたことはありましたか?

塩崎氏:
 僕はまず,みんなの書くことを信じるところから入り,やりたいようにやってもらうところから始めてました。そうして出てきたものが60〜70点のものなら没にしてもう一回書いてもらいますし,80〜90点ならそのまま誌面に掲載する。そうした中で120点の原稿を書いてくる人もいるけれど,この点数は僕が指示を出したのでは絶対に出てきません。だから,僕の方針や方向性などは言わないようにしていました。

山本氏:
 「ファミマガ」はいわば素人の集団でしたから,個人個人が勝手に動くとぐちゃぐちゃになってしまうんです。1つの記事に1人のデスクがいるような体制だったので,まずは好きなメーカーや好きなゲームの記事を担当してもらうのが基本でした。だからウル技が好きな人間はずっとウル技ばかりやってたし,スクウェア担当の人間は作業量が多いので死んでた……というように,人によってページの担当分が全然違ってたんです。そんなこともあって,僕から何かいうということは基本的にはなかったですね。

 ただ,編集長だった山森さんは見出しやレイアウト関係に細かい人だったので,全員に対してキッチリとラフのチェックをしていました。逆に,チェックを通ったあとは好きにしてもらっていて,テキストを直すようなことはほとんどしていなかったですね。ただし,子どもが読めるようなものにはしてほしいと。
 編集だけでなく,いわゆる制作のところから叩き込まれていくので,デスククラスになると原価見積もりや,制作部がやるような仕事や印刷所との原価交渉もできるようになってました。どちらも普通は編集長がやる仕事なんですけどね。だから「ファミマガ」が終わったあと,そうした仕事をしてる人間は多いですよ。

4Gamer:
 どちらも新人の自主性や好きであることを尊重する姿勢であるのが興味深いです。本日は貴重なお話をありがとうございました。

画像集 No.020のサムネイル画像 / ファミ通VS.ファミマガの歴史。塩崎剛三氏と山本直人氏,レジェンド編集者がマイコン誌時代からファミコンブームまでを語る

 この対談は,日本のゲーム業界黎明期を最前線で支えた二人の編集者による貴重な証言といえる。パソコン誌の時代から,ファミコンブームの到来,そして4大ファミコン雑誌の時代に至るまで,塩崎氏と山本氏は常に情報発信の最前線に立ち続けてきた。

 彼らの証言から浮かび上がるのは,技術的制約と創意工夫が入り混じった時代の姿だ。医療用機器を転用した画面キャプチャや,徹夜での編集作業など,今では考えられないような制作現場の実態が明らかになっている。同時に,メーカーとの近い距離感や,情報をめぐる熾烈な競争など,当時のゲームメディアの在り方も鮮明に描き出されている。

 特筆すべきは,両氏がそれぞれ異なるアプローチで雑誌作りに取り組んでいた点だ。「ファミマガ」が専門誌の多角化戦略を取る一方で,「ファミ通」は総合誌としての道を歩んだ。しかし,どちらも読者の興味や編集者の個性を重視するという共通点があり,そこにはゲームファンの心を掴むための深い洞察があったことがうかがえる。

 この対談は単なる懐古談に留まらず,急速に変化する環境下でいかに創造性を発揮し,読者とのつながりを維持するかという,現代のメディアにも通じる普遍的な課題を提示している。8月31日に出版される塩崎氏の「198Xのファミコン狂騒曲」,そして山本氏の「超実録裏話 ファミマガ」シリーズと「我が青春のテレビゲーム」は,この激動の時代をより深く理解するうえで欠かせない資料となるだろう。これらの著作を通じて,読者は単にゲーム業界の歴史を学ぶだけでなく,情報革命がもたらした社会変化の一端を垣間見られるはずだ。

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